仲正昌樹「カール・シュミット入門講義」その二:政治神学

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シュミットが自分の著作の題名に用いた「政治神学」という言葉を筆者は、否定的な文脈で批判的な意味で使われていると受け取ったのだが、仲正はそうではなく、シュミットの立場を含めた政治学全般を特徴付けるような積極的な言葉として受け止めているようだ。そうした受け止め方によれば、政治学と政治神学は密接に重なりあう概念だということになる。

こうしたとらえ方をする根拠として仲正は、「現代国家理論の重要概念は、すべて世俗化された神学概念である」(田中、原田訳)という文章を取り上げ、「シュミットはここではっきりと、神学の諸概念が、国家理論の中に入り込んでおり、国家理論の構成が神学のそれによく似ていると主張している」と言っている。これを前提とすれば、例外状況における決定を、神による奇蹟とのアナロジーで説明できる。例外状況における決定こそが政治の本質だとするシュミットにとっては、神学と政治学とは密接な結びつきを回復せねばならないということになるわけだ。

それゆえシュミットがケルゼンを批判するとき、それはケルゼンにおける神学の過剰を批判するのではなく、かえって神学の不足を非難しているという見方になる。ケルゼンは政治における決定の要素をとことん軽視して、「法治国家を人格的存在ではなく、法=規範という抽象的なものが支配している状態としてネガティブに捉えている」が、それでは法の本質を捉えたことにはならない。法には、法を法たらしめる決定がなければならぬ。それをケルゼンが見過ごしたのは、彼に神学的な思考が欠如していたせいだ、というわけであろう。

仲正はシュミットの別の諸作「独裁」にもたびたび言及しながら、主権者による決定の要請が、今日の政治状況を踏まえればいやおう無しに独裁をもたらさざるを得ないことを理由に、独裁を理論的に正当化しようとするシュミットの意図を説明する。それによれば、政治と神学とが不幸な関係に陥った結果、従来の正統性の系譜が途切れてしまった。その結果、神なき世界である今日の世界は、神に変わって新たな正当性の淵源となる存在を必要とするようになってしまった。それが独裁だとシュミットは考えた。そういいながら仲正は、シュミットのそうした考え方には一定の合理性があると思っているようである。

独裁を評価する点ではアナルコ・サンディカリストたちも同様だった。彼らも政治における決定の要素を重視し、そこから独裁の有用性を導き出した。だが独裁を評価する基準のベクトルが、両者では180度異なっていた。アナルコ・サンディカリストたちは、プロレタリアートの独裁を通じて古い秩序の解体をねらったのに対して、シュミットは独裁を通じて古い秩序の回復をねらった。シュミットがナチスに接近したのは、タガが緩んでばらばらになってしまったドイツを建て直し、古きよき時代の秩序を回復してくれることを期待したからだろう、そのような趣旨のことを仲正はコメントするのだが、それがどのような政治的意義を有しているかについては、価値中立的な姿勢をとろうとしているようだ。

ともあれ以上のような仲正の読み方を踏まえれば、シュミットはこの本を通じて、政治神学の批判ではなく、その復権を試みたということになる。






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