カール・レーヴィットのシュミット批判

| コメント(0)
カール・シュミットの著作「政治神学」の邦訳(未来社刊)には、カール・レーヴィットによるシュミット論の小文が二本掲載されている。「シュミットの機会原因論的決定主義」と「マックス・ヴェーバーとシュミット」だ。どちらもシュミットの決定主義的な議論を厳しく批判している。

「シュミットの機会原因論的決定主義」という題名は、レーヴィットのシュミットにたいする皮肉に満ちた感情をあらわしているように見える。「機会原因論」という言葉は、「政治的ロマン主義」のなかで、シュミットが政治的ロマン主義者を罵倒することを目的に持ち出したものだ。その言葉を、シュミット固有の概念である「決定主義」に結びつけることで、シュミット自身もいい加減な議論を展開している点では、政治的ロマン主義者となんら異ならないと、指摘しているわけである。

機会原因論という言葉をシュミットは、ある種の日和見主義をあらわすものとして使っていた。ロマン主義者の最大の特徴は、思想的な骨格というべきものがないことだ。だから彼らの議論は、その場の雰囲気に従って、前後左右にのらくらと展開してゆく。雰囲気にあっていれば、どんなことでも話題になる。その場の雰囲気が議論の展開のための機会になるという点で、これをシュミットは機会原因論と名づけたわけだ。骨のないくらげのようにただようばかりの空疎な議論、それが機会原因論であり、それを政治的ロマン主義者は展開していたわけだ。したがって彼らの議論は無駄なおしゃべりといってよい、そうシュミットは断罪したのである。

その機会原因論がどのようにしてシュミットの決定主義と結びつくのか。

シュミットは例外状況における決定こそが、政治にとってもっとも肝心なことだとして、決定の重要性を強調する。決定というからには、なにを、どのように、どのような理由で、という議論がついてまわるはずだが、シュミットはそういった議論を一切省略して、ただただ決定の重要性を声高に叫ぶだけだ。政治的決定にあたっては、その決定を支える理念のようなものがあるべきだ、というのが過去の政治的な議論の伝統としてあったわけだが、シュミットはそうした伝統を無視する。「かれの意図するところはただ、決定という変則的な異常な権利を、何にかんし、何のためか、にはかかわりなく、純粋に、それ自体として、確保すること」(田中浩、原田武雄訳)なのである。

これは機会原因論のやり方と全く同じではないか、とレーヴィトはいうわけなのである。例外状態における決定の重要性を強調するだけで、何を、どのような目的で、どのような理念に従って決定するかは問題にならず、とにかく決定さえなされればよい、というのでは、機会原因主義における話題の選定となんら異なるところはない。政治的ロマン主義者が、その場の雰囲気にしたがっておしゃべりの話題を選ぶように、決定主義者は、例外状態を前にして決定をするだけでよい。どんな決定かは問題にならない。決定さえすれば、新たな政治的秩序が自ずから生まれてくるものだ。そうシュミットは主張しているだけだ、とレーヴィットは批判するのである。

シュミットは、その決定をなすべき主体については語っているから、その主体、つまり主権者が、彼の自由な意思にもとづいて決定しさえすればよいということになる。こういうことでシュミットは、独裁に理論的な根拠を与えている、とレーヴィットは続けて指摘するのである。

ここでレーヴットはシュミットの独裁論についての批判に移る。シュミットといえども古代的な専制的独裁を擁護するわけにはいかない。彼といえども、独裁者と人民との間に民主的な紐帯を認めないではいられない。人民から完全に遊離した、古代的な独裁者は、現代ではいかなる意味でも擁護できない。独裁者といえども人民との間につながりがなければならない。それをシュミットは、人種の同一性に求めたとレーヴィットは言う。「指導するものと服従するものとの間に、政治的単位が人間的に保証しかつ支える何らかの平等性を、シュミットもまた求めざるをえないのである。このような平等性としてシュミットが要請するのは、いわゆる同種性であって、これがかれにとっては、神の前の、道徳の前の、法律の前での平等性の代用(物)となる」

つまりシュミットは、人種の同一性を持ち出すことで、治者と被治者が平等な資格で一致できることをもって、独裁に民主的な仮面をかぶせることができると計算した、とレーヴィットはいうわけである。その計算にもとづく政治的なものの概念は、「たんに反自由主義的であるばかりでなく、反ユダヤ主義的でもある」。ここでレーヴィットがいきなり反ユダヤ主義を持ち出すのは、レーヴィットがシュミットのうちに、ナチスを見ていたからだ。ナチスの反ユダヤ主義をシュミットが理論的に擁護している、とレーヴィットには映ったのだろう。

「マックス・ヴェーバーとシュミット」は、ヴェーバーの自由主義的な傾向を高く評価し、それとの対比でシュミットの反自由主義的な傾向を改めて批判したものだ。ヴェーバーは、現代社会の基本的な流れが官僚制化であることを踏まえたうえで、社会がますます管理社会化する趨勢のなかで、個人的な運動の自由がいかにして救い出せるかに拘った。その結果ヴェーバーがとった立場は、「官僚制的な人間機械を持つ指導者民主主義」であったが、それは「『一党制国家』における独裁的指導者の可能性を考えていたのではなくて、議会を持つ複数政党制を考えていた」。ところがシュミットは、これとは全く反して、独裁者の決定を重視する一方、自由主義的な議会制度に嫌悪感を表明した。シュミットにとっては、議会における自由な討論は時間を空費するだけの無駄なおしゃべりに映ったのに対して、ヴェーバーはまさにそこに、官僚政がはびこる時代における人間的な要素の可能性を求めたと評価するわけである。

かようにシュミットに対するレーヴィットの評価には厳しいものがある。近年では、シュミットの決定主義や「友/敵」論を、政治的な概念として積極的に評価する動きも出てきているが、それはシュミットの議論を彼が生きた時代背景から切離して、抽象的に受け取ることの結果だといえなくもない。レーヴィットの場合には、ナチスによって迫害され、生命の危機まで感じたわけだから、ナチスの行動を理論的にとりつくろったシュミットの議論は、弁護の余地なく醜悪なものとして映ったのだと思う。

人は自分を殺そうとする相手に対して、寛容な気持で向き合うことはむつかしい。






コメントする

アーカイブ