貧福論(四):雨月物語

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 左内いよいよ興に乘じて、靈の議論きはめて炒なり、舊しき疑念も今夜に消じつくしぬ。試みにふたゝび問はん。今豊臣の戚風四海を靡し、五畿七道漸しづかなるに似たれども、亡國の義士彼此に潜み竄れ、或は大國の主に身を托せて世の変をうかゞひ、かねて志を遂げんと策る。民も又戰國の民なれば、耒を釈てて矛に易え、農事をことゝせず、士たるもの枕を高くして眠るべからず。今の躰にては長く不朽の政にもあらじ。誰か一統して民をやすきに居しめんや。又誰にか合し給はんや。

 翁云ふ。これ又人道なれば我しるべき所にあらず。只富貴をもて論ぜば、信玄がごとく智謀は百が百的らずといふ事なくて、一生の威を三國に震ふのみ。しかも名將の聞こえは世擧りて賞ずる所なり。その末期の言に、當時信長は果報いみじき大將なり、我平生に他を侮りて征伐を怠り此の疾に係る。我が子孫も即他に亡されんといひしとなり。謙信は勇將なり。信玄死しては天が下に對なし。不幸にして遽く死りぬ。

 信長の器量人にすぐれたれども、信玄の智に及<しか>ず。謙信の勇に劣れり。しかれども冨貴を得て天が下の事一囘は此の人に依す。任ずるものを辱しめて命を殞すにて見れば、文武を兼ねしといふにもあらず。秀吉の志大なるも、はじめより天地に滿つるにもあらず。柴田と丹羽が富貴をうらやみて、羽柴と云ふ氏を設けしにてしるべし。今龍と化して太虚に昇り池中をわすれたるならずや。

 秀吉龍と化したれども蛟蜃の類也。蛟蜃の龍と化したるは、壽わづかに三歳を過ぎずと。これもはた後なからんか。それ驕をもて治めたる世は、徃古より久しきを見ず。人の守るべきは儉約なれども、過ぎるものは卑吝に陥る。されば儉約と卑吝の境よくわきまへて務むべき物にこそ。今豐臣の政久しからずとも、萬民和<にぎ>はゝしく、戸々に千秋樂を唱はん事ちかきにあり。君が望にまかすべしとで八字の句を諷ふ。そのことばにいはく
   尭莫日杲
   百姓歸家
 數言興盡きて遠寺の鐘五更を告る。夜既に曙けぬ。別れを給ふべし。こよひの長談まことに君が眠りをさまたぐと、起ちてゆくやうなりしが、かき消て見えずなりにけり。

 左内つらつら夜もすがらの事をおもひて、かの句を案ずるに、百姓家に歸すの句粗<ほゞ>其の意を得て、ふかくこゝに信を發す。まことに瑞草の瑞あるかな。


(現代語訳)
左内はいよいよ興に乗じて言った。「あなたの議論はきわめて面白い。これで久しい疑念も霧散しました。試みにもう一度聞きます。今は豊臣の威風が四海をなびかせ、国内はようやく静まったかに見えますが、亡国の義士があちこちに潜伏し、或は大国の臣下となって、世の中の変化を伺い、あわよくば志を遂げようと画策しています。民も戦国時代のことですから、鋤をすてて矛に代え、農事に励もうとしない。これでは武士たるもの枕を高くして眠れませぬ。今の政権が長続きするとも思えない。誰が天下を統一して民に安らかな暮らしをさせるでしょうか。また、あなたは誰にお味方するつもりですか」

翁は言った。「これもまた人間界のことゆえ、わしの知るところではない。ただ富貴に関していえば、信玄のように智謀に優れていたものにして、一生の威を三国に振るっただけじゃ。しかも名将の評判は天下に聞こえていた。その末期の言葉に、『今や信長はすぐれた大将だ。わしは平生あやつをあなどり、征伐を怠ってこの病にかかった。わしの子孫もあやつに亡ぼされるだろう』と言ったそうじゃ。また謙信は勇将じゃった。信玄の死後はかなうものがいなくなったが、不幸にして早く死んだ。

「信長の器量は人にすぐれていたが、信玄の智恵には及ばなかったし、謙信の勇気にも劣っていた。しかし富貴を得たおかげで天下を一度は平定した。だが部下を辱めて命を落としたのを見れば、文武を兼ねていたとは言えぬ。秀吉の志は大きかったが、はじめから天地に満ちていたわけではなかった。柴田と丹羽の富貴をうらやんで、羽柴と名乗ったことからも知るべし。今は龍となって大空に上り、池中のことを忘れたのではないか。

「秀吉は龍と化したが蛟蜃の類に過ぎぬ。蛟蜃が龍と化しても、その寿命はわずか三年に足りぬ。秀吉もまた子孫が絶えるじゃろう。そもそもおごりを以て世を治めたもので、昔から久しいのを見ない。人の守るべき掟は倹約じゃが、過ぎればケチとなる。されば倹約とケチとの境をよくわきまえてつつしむべきなのじゃ。今や豊臣の治世は久しからずとも、万民が栄え、戸々に千秋楽を歌って祝う時代が近づいておる。そこで、おぬしの望みどおり八字の句を授けよう」。そう言って翁は、次の句をうたった。
  尭莫日に杲(あき)らかに  
  百姓家に歸す
数々の話も尽きて遠寺の鐘が夜明けを告げた。翁は、「夜も明けたことじゃ、別れるとしよう、今宵の長談義でおぬしの眠りを妨げたな」と言って、起き上がったかと思うと、そのまま掻き消えて見えなくなってしまった。

左内は、つらつら夜の間のことを思い出しながら、かの句について思案したところ、百姓家に歸すの句の意味するところを会得し、深く感心した次第であった。まことにめでたいなかにもめでたいことである。


(解説)
金の精の論理は勇躍して、日本史の英雄たちと金のかかわりにまで発展する。信玄、謙信に始まり、信長を経て秀吉に至るまで、英雄で金を大事にしたものはいない。彼らが最終的に天下を治められなかったのはそのためだ、というのである。

こういう言い方は、当時徳川体制のもとでは厳しく監視されていたはずだ。徳川氏の祖家康に不慮に言及すれば大罪に問われかねなかったし、まして徳川氏を批判するなどもってのほか。そうした禁止は、秀吉以前の英雄たちにも影響して、これらの歴史上の人物についてあれこれと批判的な言説をなすことは、きわめて危険な行為であったわけだ。秋成はその危険な行為をあえて行っているのである。鈍感というべきなのか、腹が座っているというべきなのか。一概には言えないようだ。






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