司馬遼太郎の薩長土肥観

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司馬遼太郎は明治維新を礼賛しているので、それを遂行した勢力、俗に言う薩長土肥も非常に肯定的に見ている。司馬は一方では、薩長の宿敵であり、薩長によってひどい目にあわされた会津にも同情的な視線を注いでいるので、首尾一貫しない印象を与えてもいるのだが、司馬が会津に拘るのは、思想的な根拠からではなく、細君が会津の出身だったという偶然的な要素に大分左右されているらしい。

司馬の名誉のために言えば、司馬は会津に同情するにとどまらず、有能な幕臣たちにも同情の眼差しを向けている。要するに幕末の日本には有能な人材が沢山揃っていて、彼らが日本の近代化に多大な貢献をした。そこが中国や朝鮮とは違うところだ。どうもそう言いたいのが司馬の本音のようで、薩長土肥一元評価論というより、日本人まとめて万歳論というような姿勢をとっているように見える。

薩長土肥と並べると、いずれも倒幕を目指して同盟し戦ったという共通性が目に付くが、藩によっておのずから個性もあるわけで。司馬はその個性の相違に注目している。

司馬が一番個性的だと考えているのは薩摩のようだ。薩摩は西郷隆盛を中心にして非常に求心力が高く、その求心力に他の藩の倒幕勢力がひきつけられ、そこから大きな力が生まれていったと司馬は考えているようだが、その求心力の原点は薩摩特有の若衆制度にあった。西郷は、この若衆組織の頂点に長い間君臨し、薩摩の人材を自分の周りにひきつけた。大久保や大山も西郷の主催する若衆組から出てきた。その若衆制度にともなう人間相互の団結が、維新後西南戦争につながっていったわけで、この戦争の敗北で朝敵扱いされた西郷一派は歴史の表舞台から消えていったわけである。

この若衆制度は、有名な「よかちご」趣味を育んだ母体でもあったわけだが、司馬はどういうわけか、その方面には注意を向けない。はしたないと思っていたのだろうか。

薩摩の団結振りと対照的なのは土佐で、こちらは武士の中で上士と郷士との間に根強い身分差別があった。上士は山内の子飼いの武士、郷士は長宗我部時代からの生き残りの地侍層であった。この両者が相互に対立していたために、土佐には藩としての一体的な連帯感が欠けていたのだが、郷士出身の坂本竜馬らの活躍に引きづられるかたちで、上士も倒幕に立ち上がり、ここに土佐の中での武士階級の連帯が生まれた。この連帯が土佐を、明治維新遂行勢力の中心に押し出したわけだ。

土佐が武士階級の中の連帯感を確立したとすれば、長州は武士と農民との間の身分差を打ち破り、近代的な人間関係の醸成に成功した。奇兵隊はその象徴のようなもので、隊員同士は出自の身分を越えて互いに対等に付き合った。そこから近代的な軍隊が育ってくるとともに、官僚制の萌芽のようなものも生まれてくるわけで、長州は日本で始めて官僚制を取り入れた先進的な藩だったというのが司馬の評価の要点である。

薩摩や土佐が歴史に残る偉大な英雄を生んだのに対して、長州からは英雄と呼ばれるような人材は出ていない。木戸や高杉及びその先輩格の松蔭には英雄の素質もあったようだが、彼らは早い時期に歴史の表舞台から消え去ってしまった。最後まで残ったのは、伊藤とか山県のような、官僚的体質の人間ばかりである。司馬は、こうした官僚的な人間たちが気に入らないようで、井上や山県を、金に汚いというような理由で批判している。伊藤についてはあまり批判めいたことを言っていないが、そこは伊藤の果たした役割に一定の敬意を表しているからだろう。なにしろ伊藤は、大日本帝国の最初の総理大臣を勤めた男であり、千円札のモデルにもなったくらいだ。彼を貶めることは、日本を貶めることにつながりかねない。そこは日本人まとめて万歳論者の司馬にとって辛いところだと思ったようである。

薩長土肥のなかで、司馬の評価が一番低いのは肥前だ。肥前藩は画一的な教育をこととし、藩士たちを一定の鋳型に押し込んで、彼らの自発性を軽視した。それでも江藤や大隈のような人材が出たわけだが、それは藩の教育の成果というより反面教師の逆説のようなものだった、と司馬は酷評する。後に大隈が早稲田大学を創立し、そこで個性を重視した教育を目指したのは、肥前佐賀藩時代の悲惨な体験を反省してのものだった、そんな言い方をしている。

司馬は、肥前よりはその隣の肥後を評価している。肥後は徳川時代を通じてもっとも安定した政治が行われたが、それは後からやってきた細川の勢力が地元に根付いていた地侍たちとの融和につとめたおかげであって、そこは、土佐の場合とは大いに違う。もっとも土佐が維新の中核を担ったのに対して肥後のほうは世の中の動きから取り残された形になったわけだが。






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