啓蒙の弁証法:アドルノ&ホルクハイマーの歴史哲学

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アドルノとホルクハイマーは「啓蒙」と言う言葉を、ほぼ「文明」と同じ意味に使っている。「文明」という言葉には、一方向的な進歩というニュアンスが含まれており、過去の思想家たちがこの言葉を持ち出すときには、つねにそのような(直線的な進歩という)意味合いを持たせていたわけだが、アドルノとホルクハイマーは、そうした慣用的な用法を覆して、文明を直線的な進歩としてではなく、進んだり戻ったりというジグザグの運動を繰り返す、いわば螺旋状の運動なのだと定義しなおす。文明は時には野蛮を生み出すこともあり、そうした野蛮は文明にとっての例外的な逸脱ではなく、文明が不可避なものとして組み込んでいる、文明にとっての内在的なものの現れなのだと考え直すのである。弁証法という言葉には、否定性という契機が含まれているが、その否定性が野蛮となって現れる、と考えるわけである。

アドルノとホルクハイマーがマルクスの強い影響下から出発したことは良く知られている。マルクスの歴史観は基本的には進歩史観であって、人類の歴史は野蛮から文明への不可逆的な過程であり、その進歩の先には人類にとっての究極的な理想状態が訪れるに違いないという非常に楽天的な考え方に立っていた。これがユダヤ・キリスト教的な千年王国の理想を述べたものだとは、多少歴史の勉強をした頭なら容易に考え付くことだ。ところがアドルノとホルクハイマーは、マルクスのそうした見立ては楽天的過ぎるばかりでなく、非常に欺瞞的だと考えた。人間は理想状態に向かって一直線で進歩していく合理的な生き物なのではなく、進歩がそのまま退歩でもあるような、ジグザグのプロセスを繰り返す非合理的な生き物である。という具合に、人間観そのものにおいて、アドルノとホルクハイマーは、マルクスとは対極的な立場に立つ。

アドルノとホルクハイマーがこのような考えに立つようになったのには、時代の背景が働いている。彼らが生きた20世紀半ばは、資本主義が最高度の段階に至ったと思われた時期で、人類は歴史の新たな段階に入った、とする見方をするものも多く現れた。ロシアで成功した社会主義革命が、そうした見方を後押しした面もあった。ところがその一方で、イタリアやドイツでは全体主義的な政治がヘゲモニーを握り、特にナチス・ドイツでは歴史の進歩とは正反対の野蛮が充満する事態が現出した。そうした眺めからは、人類というものが一直線の進歩の歴史を歩むのだという想定はお人よしの思いよがりでしかない、と見えてくる。ともにユダヤ系であったアドルノとホルクハイマーにとって、こうした歴史の歩みは、自分たちの生存基盤そのものを破壊するように見えたので、いっそう彼らは進歩的歴史観に深刻な疑問を抱くに至ったのだろう。

それに加えて、彼らがナチスの迫害を逃れて亡命したアメリカも、物質的な進歩の影に精神的な野蛮が横行しているような多義的な社会であるように彼らには見えた。アメリカの物質文明の繁栄は精神の貧しさのうえで償われている。アメリカでは物質的な文明の進歩は、精神における人間の疎外をもたらしている。このように、大西洋をはさんで、新旧二つの世界で進歩と退歩が複雑にもつれあって混沌とした光景を現出している。この光景を前にしては、人間はよほど覚めていなければ、自分の生存基盤を失うハメになりかねない。実際アメリカに亡命したユダヤ人であるアドルノとホルクハイマーは、ヨーロッパで多数のユダヤ人同胞がナチスに虐殺されているとの情報に日々接して、こうした世界のありようをどう受け取ったらよいのか、深刻に思い悩んだであろうし、世界にもし福音がもたらされるとしたら、それはどのような状況においてか、思いをめぐらせたに違いない。

この「啓蒙の弁証法」は、同時代とそれに先行する人類史を展望しながら、人類の進歩と退歩とが複雑にからみあった過程を描き出し、そこから人類の本質とはなにかについて、一定の視野を獲得しようとした試みである。人類の歴史的な歩みを対象にしているという点では、この書は歴史哲学の書といってもよいし、また人類にとっての救いとはなにかについて思い悩んでいるところは、予言の書と言ってもよいだろう。そんなこともあってこの書には、宗教的な響きさえ感じられる。

この本は哲学書としても他に例がないほど難解なことで知られている。その難解さは、日本語版(岩波書店刊)の訳書も強調しているほどである。訳者(徳永洵)は言う、「この本の難しさは、ユダヤ神学などの背景にもあるだろう。しかしドイツ語原文を覗いた方ならおわかりのように、それは何よりも、そこに記されている文章の~無類のと言っていい~難解さに基づく。極端に省略を利かせ、語順を倒置し、アレゴリーと逆説と飛躍に充ちた論旨を、絢爛たるボキャブラリーをちりばめながら緊張をはらんで展開していく文体」であると。

哲学の文体にわかりにくいものが多いのは、哲学上の概念を誤解のないように厳密に定義しようとして些事に過度にこだわること、文章の流れを完璧に論理的なものにしようとして、文章の読みやすさよりも論理の筋道の正確さを最優先するところから来ているが、アドルノとホルクハイマーの場合には、扱う主題が人類の救済につながることなので、いきおい啓示的でかつ直感的なものにならざるをえないという事情もある。救済の言葉は、理性が論理の力を通じて理解するというよりは、直感を通じて感性的に受容されるものなのであり、その場合には、人の理性に働きかける表現よりは、感性を動かすような表現のほうが効果的である。そしてそうした感性的な表現というのは、一読して難解に映るものなのである。

ところで、文明が野蛮を産み出すというテーゼは、アドルノたちの知的周縁に位置づけられるアーレントも共有していた。アーレントもアドルノらと同様ナチスの迫害を逃れてアメリカにわたり、そこでナチスの経験を踏まえて「全体主義の起源」を執筆した。アーレントの思想の中核は、キリスト教文化が野蛮を生んだ土壌だとする考えであり、ナチスはその(野蛮の)究極の形だとするわけだが、アーレントの場合には、キリスト教文化のカウンター概念を持ち出してきて、それを通じてキリスト教文化が生んだいまわしい野蛮を乗り越えようとする前向きな姿勢があった。アーレントはそのカウンター概念としてギリシャ的な人間像を持ち出したわけだが、本来ならユダヤ教的な価値を前面に打ち出したかった、と思っていたかもしれない。しかしユダヤ教ではヨーロッパの知的な世界を纏め上げる力はない。そこで次善の策として、ギリシャ的な人間観を持ち出したのだろうと思うのだが、いずれにしても、そうしたカウンター概念を通じて、ヨーロッパ文明の負の側面を乗り越えようとする前向きな姿勢をもっていたわけである。

ところが、アドルノとホルクハイマーは、アーレントのようにカウンター概念を持ち出して、それを以てヨーロッパ文明の負の側面を償い、総体としてのヨーロッパ文明を救い出そうとする動機はない。ヨーロッパ文明には、進歩の側面と退歩とも言うべき野蛮とが同居している。それはたとえばギリシャ的な理想を持ち出してきて救われるようなものではない。文明は必然的に自分の内部から野蛮を産み出す。文明と野蛮とはだからコインの裏表のようなものであり、そこが「啓蒙の弁証法」という言葉がふさわしい所以なのだ、というようなシニカルな視線がアドルノたちには感じられる。

この本が面白い構成をとっているのは、啓示の書としての性格によると言ってよい。第一章で「啓蒙の概念」について説明し、次いで、その歴史的な発現形態としての古代ギリシャと近代ヨーロッパについて言及する。そこではホメロスの「オデュッセイア」(第二章)とマルキ・ド・サドの「ジュリエット」(第三章)がテクストとして取り上げられる。

第四章では啓蒙の現代的な形態である文化産業が、第五章では啓蒙の落とし子としての反ユダヤ主義が、第六章ではナチズムの本質が論及される。難解極まりない文章を読み進んでゆくにつれて読者は、アドルノとホルクハイマーの究極の目論見が、ヨーロッパにおける反ユダヤ主義に対する絶望的な反論なのだと思うようになるだろう。






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