洲崎パラダイス赤信号:川島雄三

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洲崎パラダイスとは、昭和三十三年に売春防止法が施行されるまで、東京有数の赤線地帯として栄えたところである。現在の土地勘でいうと、地下鉄の木場駅の千葉方面の出口を出て南へ数歩行ったところに、弁天橋という橋が運河にかかっており、それを渡ると遊郭街が広がっていた。この遊郭街は、徳川時代の初期に根津から移転してきたものを核として形成され、徳川時代の末期から昭和のはじめにかけて、日本有数の赤線地帯として栄えた。戦前は洲崎弁天町と言われたが、戦後洲崎パラダイスと名を変え、男どもの安価な性欲のはけ口として親しまれた。

この映画は、洲崎パラダイス自体を描いたものではない。パラダイスの入口付近、弁天橋の袂にある小さな飲み屋を舞台にしている。その飲み屋に食い詰めた若い男女がやってきて、そのまま居つく。彼らがここへやって来たのは、女のほうが昔洲崎で稼いでいたらしく、その土地勘を頼って流れてきたというふうに、どうもなっているようだ。といっても、女は洲崎の遊女に舞い戻りするわけではない。遊女上がりのことだから尻は軽いが、男を大事に思っている。そんな女を男のほうも心の支えにしている。そんな二人を描くわけだから、この映画は、題名が暗示するような赤線物語ではなく、ごくありふれた男女の話なのである。

二人が洲崎の近くにやって来たのは、食い詰めたせいだったと言ったが、その食い詰めた二人が勝鬨橋の上で途方にくれるところから映画は始まる。勝鬨橋から都電に乗って永代橋を渡った二人は、洲崎弁天町でバスを降りる。停留所は弁天橋の近くにあって、洲崎パラダイスはすぐそこだ。しかし女はパラダイスの中には入らずに、その手前にある飲み屋に入り、そこで飲み屋の女将を口説いて世話になることとなる。世話ついでに、男の住み込みの仕事まで世話してもらう。

こうして新しい生活を始めた二人に、さまざまなことがおこる。その過程でパラダイスの遊女たちも登場するが、彼女らが大きな役割を果たすことはない。三橋達也演じる若者と新珠三千代演じる女が、いかにも若いカップルらしく恋のさやあてをしあうのである。

この二人を中心として、脇役として飲み屋の女将を演じる轟夕起子と蕎麦屋の店員を演じる芦川いずみが光った存在感を示す。とりわけ轟夕起子は、昔かたぎの女を心憎く演じている。底なしに善良で、自分をだましたものでさえ許してしまうような心の優しい女なのだ。特に、自分を捨てて女と駆け落ちした亭主が四年ぶりに戻って来たときに、彼女の見せる表情がなんともいえず殊勝だ。彼女は、半分は亭主を恨みながら、半分は亭主の帰りがうれしくてしょうがないのだ。

さまざまな出来事に見舞われ、一時は離れ離れになる危機に陥ったりするが、なんとか試練をくぐり抜けた二人は、結局また元通りの二人に舞い戻って、勝鬨橋の上で思案にふけるところで、映画は終わる。あたかも二人はずっと前からそこにたたずんでいたのであって、いままで二人の身に降りかかった出来事は夢のなかの幻だったというように。

この映画の原作は、芝木好子の作品「洲崎パラダイス」である。それに川島が「赤信号」をつけて「洲崎パラダイス赤信号」と題したわけだが、なぜそんな題をつけたのか。川島は明示的に語っていないようだが、この映画が公開された昭和三十一年は、売春防止法の施行が押し迫っていて、赤線地帯には存続の赤信号がともっていた。そこからこんな題をつけたのだろう。だからといって川島は、赤線の消滅を惜しんでいるわけではない。この映画にしても、赤線を正面から取り上げたわけではなく、若い男女の恋物語の添え物のような扱いをしているに過ぎない。

川島は、戦前に映画界入りした古株で、それまで多くの映画を作った実績があったが、みなB級映画ばかりだった。そんな川島にとってこの映画は、はじめて芸術的な香気を感じさせたものである。そんなわけか川島は、この映画に特別な思い入れがあったようである。






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