幕末太陽伝:川島雄三

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落語は物語性に乏しいこともあって映画化には馴染まないらしく、落語を映画化したものはあまりない。そんななかで目を引くのが川島雄三の映画「幕末太陽伝」だ。これは「居残り佐平次」という古い落語を映画化したもので、当然笑いが命である。笑いの大家川島雄三ならでは、なかなか着目できないところだろう。またこの話は品川の遊郭街を舞台にしている。遊郭も川島の愛してやまなかったもので、「洲崎パラダイス赤信号」では、消滅の危機に瀕する遊郭街を愛惜の年を以て描いていた。「幕末太陽伝」もまた、売春防止法の施行直前(1957年)に公開されているから、川島はここでも消え行く日本の遊郭街に愛惜の念を寄せたつもりなのだろう。

落語の粗筋はこうである。佐平次という遊び人が仲間を募って品川の相模屋という女郎屋に繰り出しドンちゃん騒ぎをする。仲間を先に返して一人残った佐平次は、帰った仲間が金を持って迎えに来るからそれまで待たしてくれといって、引き続き滞在して飲んだり食ったりを続ける。そのうち痺れをきらした宿が勘定をきつく催促すると、実は一文無しだと開き直る。その上で、自分の体で借金を返すからと、宿屋に居残って手代の真似を始める。要領のいい佐平次は、一躍人気者になる。そんな佐平次を面白く思わない同僚たちが店の亭主を説得し、借金は棒引きにするから出て行けと言わせる。それを受けた佐平次は、おれは居残りを稼業にしているもんだ、お前たちは実にお人よしだな、と捨て台詞を吐いて去る。そこで悔しがった亭主が「あたしのことをおこわにかけやがったな」というと、手代たちが「旦那の頭がごま塩ですから」と言って落ちをつけるというものである。「おこわにかける」とは一杯喰わせるという意味で、ごま塩がおこわの縁語なのは言うまでもない。

映画では、フランキー堺が佐平次役になり、落語の筋書きをほぼ忠実に再現する。だがそれだけではちょっと淡白すぎるので、女郎たちや客たちのかかわりとか、宿の馬鹿息子と下女の駆け落ちとか、幕末の尊皇攘夷の志士達の不穏な動きとかをからませる。品川遊郭のすぐ隣の御殿山はイギリスの大使館があったところで、そこを長州の連中が闇討ちしたという事件が起きているが、映画はその事件を盛り込んで、佐平次と長州侍とのやりとりを面白おかしく描いている。幕末太陽伝という題名には、この長州人たちの青春群像という意味も込められているようだ。

映画に出てくる長州人は、高杉、久坂、伊藤、井上といった連中だが、この連中がみな対等の立場でやりあっている。実際には伊藤のような百姓上がりの足軽身分と高杉のような高級身分との間には、厳然たる身分格差があって、伊藤などは高杉の前では下人に近い態度を示していたはずだ。その高杉は結核で早死にしているが、映画のなかでは元気溌剌で病気とは縁がないといった顔つきをしている。そのかわりというわけでもなかろうが、フランキー演じる佐平次が始終ゲボゲボと咳をしている。

遊女の花形を、左幸子と南田洋子が演じている。この二人はライバル同士で、ことあるごとにいがみ合っている。時には相撲取りも顔負けするような取っ組み合いを演じたりする。また左幸子は、小沢昭一演じる間抜けと心中沙汰を起こし、それがもとで大騒ぎが持ち上がる。その大騒ぎを佐平次が陰で操っているといった具合に、この映画のなかの佐平次は、頭のいい悪党として描かれている。

鉄漿をつけてしなをつくる左幸子が妖艶な雰囲気を出していて、なかなか良い。彼女はこのあと、「ニッポン昆虫記」や「飢餓海峡」で円熟した演技をみせるようになるが、この映画の時点ではまだ二十代の若々しさにあふれている。

映画のなかでは遊女たちが荒神さまの祭を楽しみにしている。荒神さまというのは、品川神社の付近にある海雲寺の秘宝「千躰荒神王」をお祭するもので、そもそも台所の神様のお祭だったようだ。それがどういうわけか、遊女たちの守護神になったらしい。同じ台所の神でも、韋駄天は包丁の守護神となり、荒神は遊女の守護神になったわけだ。

同じ遊女を父子が別々に買うという話が出てくるが、これなどは実際にあったことかもしれない。日本では、親子丼といって、一人の男が母子をともに妾にする話はめずらしくないが、一人の女を父子が二人で争うという話は珍しいのではないか。万葉集に出てくる手児菜の話は、一人の乙女に二人の若い男が言い寄る話なので、これとはちょっと違う。

落語では、おこわとごま塩が落ちになっているが、この映画では、宿から逃げようとするところを、しつこい客に邪魔された佐平次が、客の罵りを背に受けながら逃げる場面で終わる。佐平次が走ってゆく東海道の道が、海のすぐそばにあるのが面白い。川島なりに時代考証にこだわったものと見える。






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