オデュッセウスとジュリエットに見る啓蒙の弁証法

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アドルノ&ホルクハイマーは、啓蒙の歴史的な段階を表現した好例としてホメロスの叙事詩「オデュッセイア」とマルキ・ド・サドの小説「ジュリエット」を取り上げる。「啓蒙の弁証法」の第二及び第三章は、それぞれ第一章たる「啓蒙の概念」への補論として、この二つの例の検討に当てられている。彼らによれば、「オデュッセウス」は、人類が野蛮の状態から文明の状態へと飛躍することで、童蒙(蒙昧)の状態から啓蒙の状態へ進化したことを表し、「ジュリエット」は、啓蒙がその絶頂を極めた時点で啓蒙の反対物たる獣性=野蛮を呼び出したということを主張したものだと言うのである。


「オデュッセウス」は、人類が作り出した始めての叙事詩として、人間が野蛮を脱して文明へと飛躍したことを物語る記念碑的な作品である。「オデュッセウス」以前には、神話があっただけで叙事詩はなかった。叙事詩は、自立した人間を主人公にするが、そうした主人公が登場するのは、人類が文明の段階に入ったあとである。それ以前には、自立した個人は存在しなかった。人間は個人としてではなく、共同体の一員として生きていたに過ぎない。神話とは、そうした共同体の共同精神というべきものを表現したものである。

「オデュッセウス」は、野蛮と啓蒙との対立がテーマである。この壮大な叙事詩の主人公オデュッセウスは、いま文明人になったばかりの個人として描かれている。彼は完全な文明人になりきっておらず、自分が生まれ育った野蛮状態に郷愁を感じている。その郷愁の感情を、さまざまな神話的な怪物が挑発する。キルケーやセイレーンたちによる誘惑はその最たるものである。

「野蛮はホメーロスにとっては、ほぼ次のように定義される。つまり、組織的な農耕が全然行われず、したがって、労働と社会に対する組織的な編成・時間的な処理体制がまだ達成されていないことである。ホメーロスはキュクロプスたちを『無法のやから』と呼んでいる」(「啓蒙の弁証法」第二章、徳永洵訳)。こう言ってアドルノ&ホルクハイマーは、啓蒙の本質を組織的な農耕およびそれに伴う労働の組織的な編成に求めた。文明人はそのような組織的な農耕・労働の主体として登場するわけである。彼は自然に働きかける主体として、また労働を組織する主人としてとりあえず登場する。彼の前では自然は征服されるべき客体であり、労働者たちは支配すべき対象になる。啓蒙によってすべての人間が文明人になるわけではない。ここに啓蒙が人類の進歩について持つ矛盾が潜んでいるわけだが、彼らはとりあえずそのことを深くは掘り下げない。

ともあれ啓蒙は野蛮状態からの脱却である。すべての人間が脱却できたわけではないが、とりあえず人類の一部のエリートが文明状態に飛躍できたことで、人類は新たな歴史の段階に入った、と彼らは総括するわけである。ところで故郷とか田園といったイメージは、人類が野蛮な状態に止まっていた次代の郷愁を呼び起こすように見えるが、実はそうではない。「ファシストたちは、神話こそ故郷であるなどという真赤な嘘をつきたがるが、故郷の概念は神話と対立したものなのであり、この点にこそ、この叙事詩の最も深いパラドクスが潜んでいる。この叙事詩には、あらゆる故郷の前提をなす定住生活が遊牧時代のあとに続いたものとする、歴史の記憶が淀んでいる」(同上)。つまり、遊牧時代から定住生活の時代へ、童蒙な状態から啓蒙された状態へ、神話から叙事詩への移行は、パラレルな過程だったと彼らは見るわけである。

人類が啓蒙の状態に移行することによって、何から何までよいことが起ったというわけではない。まず文明化された人間は一部のエリートにとどまったし、その文明も負の側面を持っていた。そうした文明の負の側面をあぶりだすのが、この書物の最大の目的なのだが、この章ではそこまでは踏み入らない。とりあえず、野蛮との対比における啓蒙の本質を抉り出すにとどまっている。

第二章の「ジュリエット」では、啓蒙の弁証法が立ちいって論じられる。「ジュリエット」の作者マルキ・ド・サドはフランス革命期の人物だが、彼をアドルノたちはニーチェの直接の先駆者とみなし、小説の中のジュリエットの言葉を、ニーチェの箴言になぞらえる。ニーチェは、キリスト教道徳を徹底的に批判し、それを文明と同一視した上で、文明がいかに人間性を損なったかについて強調した。つまり文明が人間性にとって持った負の側面を暴きだしたという点で、ニーチェは啓蒙の弁証法の本格的批判者ということになり、そのニーチェと同じ主張を更に一時代前に、ジュリエットという架空の女性の口から言わせていたという点で、サドは啓蒙の弁証法の先駆的な批判者だったと彼らは位置づけるわけである。

ジュリエットが生きているのはフランス革命の時代である。フランス革命に先行する時代は啓蒙の時代と呼ばれ、フランス革命は啓蒙の爆発だと言われた。そこで啓蒙とはなにか、ということが問題になるが、それは理性万能の信仰だと、ジュリエットとともにアドルノたちも考える。そこでこの章は理性の伝道者であるカントへの言及から始まり、「理性とは『特殊なものを一般的なものから導き出す・・・能力』なのである」という結論を導き出す。しかし人間とは果たして理性だけで成り立っている存在でしょうか、そうではないでしょう、とジュリエットは言う。彼女はそう言うことで、人間には啓蒙だけでは説明できない闇の部分もあるのだと指摘し、また人間の中の暴力的・獣的要素にこそ尊いものがあると主張するのだが、そう言うことで彼女は、ニーチェの直接の思想的な先駆者でありえているわけである。

「文明によってタブー化された先史時代の行動様式は、獣性の烙印の下に破壊的な方式へと姿を変えて地下の存在を導いてきた。ジュリエットはそういう行動様式を、もはや自然的なものとしてではなく、タブー化されたものとして実行する」(同上)。この文章の中の「実行する」という部分が重要である。ニーチェは破壊的な主張を繰り返し叫んだが、自ら破壊的な存在になることはなかった。ただ狂人になっただけだ。だがジュリエットは自ら破壊的な存在者(サディスト)となって世の中の道徳を嘲笑する。

だがジュリエットは啓蒙の落とし子たる科学を軽蔑しているわけではない。逆に「ジュリエットは科学を信条としている。彼女にとっては、神や死せる神の子への信仰、十戒の遵守、悪に対する善の優位、罪に対する救済の優位といった、その合理性を証明できないものを崇拝することは、虫酸の走る想いがする」(同上)のである。彼女の眼にはまた、人間は生まれながらに平等だという教説もナンセンスに映る。人間とはそもそも不平等に生れついたものなのだ。こうした意見は他の登場人物であるヴェルヌイユ氏も共有している。彼は言う、「どう見てもそうではないのに、人間は権利の上でも事実から言っても、平等に生まれついているのだと請合うほどの愚か者が、いったいどこにいるでしょうか! この手の逆説を弄するのは、ルソーのような人間嫌いだけがやることです。なぜって彼は自分自身がいたって弱いために、自分が追いつくことのできない人間を、自分のレベルまで引き降ろそうとするからです」(同上)。

こうした主張はニーチェの思想を一世紀近く前に、それも一人のサディストの女性の口から言わせたものなのだが、その主張の中には、人間の平等を主張するあまり、人間のなかの高貴な要素を見過ごしている同時代の啓蒙主義者たちへの深い嫌悪が込められていると言える。その嫌悪を、一世紀後になってニーチェがもっと声高に、しかもわかりやすい理屈だてをしながら主張した。その主張は叫びといってよかった。だが人間は叫んでいる人間の声を聞こうとはしないものだ。なにも叫ばないでも意思は通じるものを、わざわざ叫んでいるのは頭が狂っている証拠だと誰もが考えるからだ。

ともあれアドルノたちは、こうしたサドとニーチェに共通する主張をドイツのナチズムに結び付けようとして次のように言う。「サドの描写の中で脚光を浴びている死への愛、苦しむ者に何としてでも恥辱を与えまいとするニーチェの内気で厚顔な大度量、つまり残酷さについての想像と偉大さについての想像は、人間に対して、のちにドイツ・ファシズムが現実の世界でとったと同様の厳しい態度を、遊びと空間の世界で示している」(同上)

以上、この章でも、啓蒙の弁証法から生れる負の側面が言及されるのだが、その負の側面がどのような必然性に基づいて発現するのか、そのメカニズムについては触れられていない。啓蒙は、必然性によってではなく、事実の上で、負の面を発現するようにできている、と言いたいかのようだ。






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