司馬遼太郎の軍隊体験

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司馬遼太郎は二十二歳で敗戦を迎えた。彼は外国語学校在学中に学徒出陣し満州に配属され、その後日本に戻ってきて栃木県の佐野で敗戦を迎えた。ソ連の参戦がもう少し早かったら、ソ連製の徹甲弾で戦車を串刺しにされて死んでいたはずだと本人は言う。また、日本では、アメリカの本土上陸に備えていたが、もしアメリカが関東地方の沿岸に上陸してくれば、「銀座のビルわきか、九十九里浜か厚木あたりで、燃え上がる自分の戦車の中で骨になっていたにちがいない」と言う。だが司馬は骨にならずに、生きながらえることができた。生きながらえて戦争を振り返ると、一体この戦争は何だったのだ、という思いに司馬が捉われたのは無理もない。司馬は自分の体験を踏まえて、日本人をこのような目にあわせた昭和という時代を、日本史の中での異胎の時代だと思ったわけであろう。

司馬は自分の体験した昭和という異様な時代について、これは日本の歴史の上で、前後から断絶した特殊な時代であるという理由で、深く語ろうとしない。語るに値しないと思っているようだ。というより、昭和という時代を基準点にして日本を語りたくない。日本は昭和で代表されるような国ではない。そういう屈曲したものが彼の中でうごめいているのだろう。とにかく、司馬は昭和を正面から語ることがないし、その時代とのかかわりにおいて、自分を語ることもない。

司馬よりやや上の世代には、それなりの体験を踏まえて、日本の遂行した戦争の実態を含め、昭和という時代に向き合ったものもいる(たとえば大岡昇平とか安岡章太郎)。だがやはり多くの人は、戦争体験やら昭和という時代の意味について語りたがらない傾向が強いようである。だから司馬が昭和を語らないからといって、司馬ばかり責めるのはフェアではないだろう。戦争指導者の中には、戦後もなお自分のした行為に無自覚で、日本軍の戦争を肯定的に語ったり、中には戦争中の自分の行為を自慢するものがいた。そういう連中に比べれば、司馬は良心的であるともいえる。彼が昭和の戦争を語らないのは、それを語ることによって、自分の日本人としての誇りが傷つくのを恐れているかのようである。

その点は、ほぼ同年代の三島由紀夫とは大きな違いだ。三島は敗戦の年に兵役年齢になっていたが、兵役を逃れて生き延びた。その三島が戦争を美化したことはよく知られている。これはもしかしたら、兵役逃れをしたことによる良心の呵責が、捻じ曲がって発露したのだと考えられなくもないが、いずれにしても、同年代の日本人でも、軍隊体験の無いものが戦争を美化し、軍隊体験をしたものが戦争を忌避する、というのは興味深いことだ。

忌避するといっても、司馬の場合には積極的に否定するというわけでもない。戦争は、あるいは必要なことかもしれぬが、自分の体験した戦争は、とんでもない代物で、いまさら他人様にお話できるようなものではない。だから自分は、それを語るのを避けて、黙っているのだ、という姿勢をとっている。

繰り返すようだが、司馬は戦争に明け暮れた昭和という時代について、それが日本史の上で異胎であったことを理由に、積極的に語ることをしないのである。昭和を積極的に語り出すと、日本史についての自分の認識に曇りが生じる。そう恐れているかのようである。






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