2017年1月アーカイブ

倣李唐牧牛図:雪舟

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李唐は、北宋末から南宋はじめにかけて活躍した画院画家で、南宋画の先駆者の一人として位置づけられる。雪舟は、夏珪らとならんで、李唐の画風も吸収しようとして、ここにあるような模写を行った。

能「石橋」を見る

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NHKが昨夜(1月29日)、珍しく能の番組を放映した。題目は「石橋」。これは昨年の正月番組でも取り上げられていた。その時には、金春流の「群勢」という珍しい小書によるもので、獅子が四匹も出てきて勇壮な舞を披露するというものだったが、今回は喜多流で、紀州徳川家に伝わる小書によるというものだった。

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「ふくれつら(Te Faaturuma)」と題したこの絵のモデルは、「花を持つ女」と同じ女性と思われる。ノアノアによれば、ある日隣人の女がゴーギャンの小屋にやってきて、絵を見せてくれと言った。そこでゴーギャンはマネのオランピアの複製を見せてやったところ、彼女は特別な関心を以てそれを眺めながら、「これはあなたの奥さんか」と聞いた。ゴーギャンはそうだと嘘を言ったが、そのことにいくばくかの疚しさを感じながらも、その女の表情をスケッチする誘惑に駆られた。すると女は「ダメ」と言って去ってしまった。ゴーギャンはがっかりしたのだったが、一時間後にその女が着飾って舞い戻り、ゴーギャンのためにポーズを取ってくれた。それが「花を持つ女」だ。

アメリカは、自由を求めてイギリスから渡ってきた移民たちの子孫が人工的に作った国である。それ故「建国の父祖」という言葉が実感をもって迫ってくる。この言葉は、単に象徴的な意味合いを投げかけるだけではなく、アメリカという実在する国が、特定の人間たちによって、あたかも芸術作品のように創作された、という実感を人々にもたらすのである。

西行の恋(一):西行を読む

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西行は生涯に三百首を超える恋の歌を作ったが、それらがどんな人に向けられていたのか、特定の一人の女性か、あるいは時に触れ愛した何人かの女性か、ほとんどわかっていない。有力な説としては、西行が生涯に愛した女性はただ一人、それは待賢門院璋子だとするものがあるが、確証があるわけではない。待賢門院が徳大寺家の出で、徳大寺家に仕えていた西行とは深いつながりがあったはずだ、というのがその主な根拠で、また、待賢門院の子である崇徳院に西行が異常な忠義を尽くしていることを傍証にしているものが多いが、それとても西行と待賢門院との結びつきを愛の観点から説明するには苦しい。第一待賢門院は西行より十七歳も年上だ。十七歳という年の差は、西行の時代には母子のそれに相当する。そんな女性に西行が生涯をかけて恋い慕ったとするには、不自然なところも多い。だが、西行が待賢門院と深くかかわっていたことだけは事実のようだ。

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「アラビアン・ナイト(Il Fiore delle mille e una notte)」は、「デカメロン」及び「カンタベリー物語」に続く猥褻小話映画だが、前の二作に比べるとやや冗長な感じが否めない。時間が長いということもあるが、全体にいまひとつぱっとしない。というのは、原作の「千一夜物語」は、猥褻が売り物ではなく、その点で、猥褻を生命とするこの映画とはフィットしない上に、映画自体も、前の二作に比べて猥褻のポリシーが不徹底であるように思える。観客はこの映画の中で、男女の裸を散々見せられるのだが、男女の裸そのものは別に猥褻とはいえないし、その裸の男女が絡み合うところも、あまり猥褻さを感じさせない。恐らくこの映画には、猥褻と滑稽との結びつきが弱いために、猥褻が生真面目な印象を与えるのであろう。猥褻は本来笑いを伴うもので、生真面目な猥褻は形容矛盾のようなものだ。

雪舟の山水図巻(秋冬)

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(山水図巻秋)

山水図巻の画面は、季節ごとに均等に割り振られているわけではない。秋と冬はあわせて全体の四分の一程度である。これは夏珪の原作がそうだからか、あるいは雪舟の独自の配分なのか。日本人が秋がすきなのは雪舟の時代も変らぬと思うので、おそらく原作の構成に左右されたのではないか。

フォークナー「響きと怒り」

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フォークナーの小説「響きと怒り」は、20世紀を代表する傑作という評価が高い。作品自体の迫力がすごいし、その後の世界の文学者たちに及ぼした影響は、計り知れないものがある(と言われる)。日本でも大江健三郎ほか多くの文学者がインスピレーションを受け、とりわけ中上健次はフォークナーの語り口を参考にして独自の文体を確立した。単に模倣されるのではなく、これをきっかけにして新たな文学実験を呼び起こしたと言えるわけで、それはフォークナーの作品の豊穣さを物語るものと言ってよい。

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1891年6月28日にタヒチの首都パペーテに下船したゴーギャンは、フランス政府のエージェントの資格で、現地のフランス人社会から大歓迎を受け、女まで世話してもらったが、やがてうんざりして、パペーテの南東50キロのマタイエアという部落に移り、そこの掘っ立て小屋に住むことにした。タヒチ滞在記「ノアノア」によれば、マタイエアにおちつき、仕事に取り掛かろうとしていたとき、ゴーギャンは是非タヒチの女性の肖像画を描いてみたいと思っていた。そんな矢先に一人の女性が現れて、ゴーギャンのためにポーズをとってくれた。その絵がこの「花を持つ女(Vahine no te tiare)」である。

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「カンタベリー物語」は、「デカメロン」と並んでヨーロッパ中世の滑稽小話集の双璧と言われる作品だ。構成や語り口に共通するところが多いので、前者が後者の影響を受けたと指摘される。筆者は学生時代に両方とも読んだが、「カンタベリー物語」のほうにより深い感銘を受けた。「デカメロン」のほうはほとんど忘れてしまったが、「カンタベリー物語」のほうは、男にキスさせると見せかけて屁をかませた女の話とか、木の上で密通する男女の話とか、一夜の宿を借りた二人の学生が宿の亭主の女房と娘を寝取る話とか、おぼろげながら覚えているのは、これらの話が強烈に猥褻だったからだろう。

アドルノの著書「本来性という隠語」は、戦後ドイツの思想状況を批判したものである。アドルノはこの著書を当初、「批判弁証法」の一部として構想したが、扱っているテーマが、本体からの独立性が高いと自覚して、両者の分業を図ったという。この著作でアドルノは、隠語が横行している戦後ドイツの欺瞞的な思想状況を批判するのだが、その欺瞞性はハイデガーのような狡猾な哲学者だけではなく、ヤスパースのような誠実な思想家をも蝕んでいる。隠語の持つ独特の力が、戦後ドイツの思想界をまるまる包み込んでいるからである、とする。

恋の歌:西行を読む

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山家集は四季それぞれの部に続いて恋の部があり、最後にそのほかのものをまとめて雑の部としている。恋の部には百三十四首の歌が収められているが、西行は他にも恋の歌を多く歌っており、その数は三百首以上になる。僧の身である西行がなぜかくも恋にこだわり、しかも恋の歌を異常ともいえるほど数多く読んだのは、いったいどんな事情に駈られてか、後世の注意を引き続けたところである。西行は隠遁者として世の無常を歌ったというイメージが強いが、実際には恋多き煩悩の人でもあったわけである。

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「デカメロン」は、十四世紀のイタリア人ボッカチオによる小話集である。十人の男女がペストの災いを逃れてある邸に避難し、気晴らしのために十日間にわたって各自が一話ずつ小話を披露し、合計百の小話が語られる。筆者が原作の日本語訳を読んだのは学生時代のことだから、内容の詳細は忘れてしまったが、卑猥な話が多かったように記憶している。男女が気晴らしに喜ぶ話だから、話題が下に傾くのは無理もなかろう。

トランプが大統領就任の当日に、かねての公約だったTPPからの離脱とNAFTAの再交渉を正式に表明した。TPPもNAFTAも自由貿易の枠組として、アメリカが主導して作ってきたものだ。それは、自由貿易がアメリカ資本にとっての活躍のチャンスを拡大するという信念に基づいていたわけだが、自由貿易にはアメリカにとって不都合なこともある、とトランプが判断して、今回のような事態になったわけだ。どんな不都合があるのか。それはトランプ自身が自分の行為を通じて語って見せた。NAFTAの枠組を利用した自動車資本が、メキシコで安く車を作り、それをアメリカに輸出する。そのおかげでアメリカは雇用を失う一方、メキシコなどの外国に一方的に利用される、これはアンフェアだ、そういう不都合をトランプは訴えたわけだ。それ故、TPPとかNAFTAを見直すのは、アメリカの雇用や産業の活性化にとって当然のことなのだ、と言いたいわけであろう。

雪舟の山水図巻(春夏)

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(山水図巻冒頭部分)

帰朝後の雪舟は、図巻形式の山水図をいくつか描いた。文明三年の「倣夏珪山水図巻」をはじめとして、山水図巻(京都国立博物館)、山水小巻、狩野探幽模「山水図巻」などである。それらはいづれも、横長の画面に四季の風景の変化を順を追って描いているというもので、山水画を日本古来の図巻形式で表現しようとしたものだ。雪舟以前の室町時代の山水画は、軸のような縦長の画面で表現するのが普通だったが、雪舟はそれを意図的に横長の画面に移し変える試みを行ったのである。

ゴーギャン:タヒチの夢

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ポール・ゴーギャンは、生涯に二度、南洋の島タヒチに行った。一度目は、1891年から1993年にかけての二年間で、この時には、ヨーロッパの俗悪振りから解放されて、純粋な芸術を追及したいという目的が働いていた。二度目は1896年以降であって、この時は、ヨーロッパに絶望し、タヒチに骨を埋めるつもりで行った。実際ゴーギャンは二度とヨーロッパに戻ることはなかったのである。死んだのはタヒチではなく、マルキーズ諸島のヒヴォア島であったが、ヨーロッパからはるかに離れた南海の絶島で生涯を終えることは、ゴーギャンにとっては本望ではなかったかもしれないが、それでもヨーロッパで死ぬよりはましだと思ったことだろう。

ドナルド・トランプがアメリカにおける反知性主義の伝統をよみがえらせたことで、リチャード・ホフスタッターの「アメリカの反知性主義」と題した本に脚光が浴びた。先日、日本人の森本あんりが、ホフスタッターとは別の視点からアメリカの反知性主義を俯瞰して大きな反響を呼んだが、やはりアメリカの反知性主義論の先駆者はホフスタッターだ。そのホフスタッターは、もともとはアメリカ政治史の専門家で、「反知性主義」に先駆けて「アメリカの政治的伝統」という本を書いている。

雪:西行を読む

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冬の景物といえばやはり雪ということになる。古今集の冬の部は大部分が雪の歌である。山家集の冬の部には八十七首中二十数首雪を歌った歌が収められている。雪は隠遁生活に慣れていた西行にとっては、隠遁の趣を更に深めるものでもあり、良きにつけ悪しきにつけ、深い感慨をもたらすものだった。

乱れ雲:成瀬巳喜男

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1967年の映画「乱れ雲」は、成瀬巳喜男の遺作となった作品である。成瀬の遺作としては多少の物足りなさを感じさせる。溝口(赤線地帯)や小津(秋刀魚の味)の遺作がそれなりの迫力を感じさせるのに比較して、成瀬のこの映画は、燃え尽きたエネルギーの残り糟のような感じを与える。成瀬は晩年まで駄作の少ない作家だったといえるのだが、この映画は、駄作とはいえないまでも、傑作でないことは誰しも認めるだろう。

トランプ政権発足

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トランプ政権がいよいよ発足した。トランプ始め、かれを取り巻く一党のメンバーを見て、一昔前の西部劇に出て来たならず者一家を想起したのは筆者のみではあるまい。

雪舟の倣夏珪山水図

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(夏景山水図<倣夏珪>)

雪舟は在明中に中国画に学ぶ一方、著名な画家の絵を求め、それを携えて日本に戻った。そしてそれらの絵を模倣しながら、自分の画風の確立に努力した。雪舟が模倣した画家は何人かあるが、中でも夏珪は最も強い影響を雪舟に及ぼした画家であった。南宋時代の画院画家で、南宋院体の代表的な作家と目されている。日本にも「雨景山水図」などが今に伝わっている。

千年の愉楽:中上健次

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「千年の愉楽」もまた紀州の路地を舞台にしているが、前二作(岬、枯木灘)とは全く違う世界を描いている。前二作は、路地を舞台にして展開する家族の因縁のようなものを、日本文学の伝統である私小説的な文体で、リアリスティックに描いたものだが、この小説は全く架空の物語の世界を描く。「千年の愉楽」という題名からして神秘的な雰囲気を感じさせるが、実際この小説の主人公である「オリュウノオバ」は、百年も千年も生きたということになっている。百年も千年も生きていれば、それこそありとあらゆる経験をしただろうし、その経験の中には普通人の理解を超えたようなシュールなものもあっただろう。この小説はそうしたシュールな出来事を、きわめて肉感的と形容できるような、不思議な文体で描いている。一読してわかるように、これは日本の文学の伝統を大きくはみ出した、非常にユニークな作品と言うことができよう。

偶像(L'idole):マティス、色彩の魔術

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マティスは1941年にリヨンで腸の手術を受けたことがきっかけで臥床がちになった。そんなマティスの夜間の看病をするために、一人の女性が雇われた。モニック・ブルジョワという若くて信仰深い女性だった。マティスはこの女性をモデルにして多くの絵を描いた。「偶像(L'idole)」と題するこの絵は、その代表的なものである。

女の中にいる他人:成瀬巳喜男

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「女の中にいる他人」は、成瀬の作品としてはかなり変ったものだ。成瀬といえば女の生き方に拘った映画を作り続け、とくに戦後にはその傾向が強まったのだが、この作品で描かれているのは女の生き方とはいえない。むしろ男の、それもかなり軟弱な男の生き方である。女はそんな男を見守り、時には男の気持を引き立てるための脇役のような位置づけをされている。それまでの成瀬映画とは、全く違った雰囲気の作品だ。

保守派の論客で、辛口批評で知られるジョージ・ウィルが、Japan Times に寄せた文章の中で、トランプを評して「アメリカ政治界のゲンゴロー」と言った。ゲンゴローというのは、甲虫の体を起用に動かして水の上を移動しているが、それは無心に動いているから浮いていられるのであって、俺はどうして浮いているんだろうなどと考えはじめたら、沈んでしまう。それと同じように、トランプも何も考えずに生きている。考えることは自分にとって得策でないと、本能的にわかっているからだ、というのである。

「ヨーロッパの学問の危機と先験的現象学」はフッサールの遺書となったものだ。彼はこの著作のうち第一部と第二部を生前ドイツ国外で発表し、その後まもなくして1938年に死んだ。第三部は死後発表された。

Hard Brexit:テレサ・メイの選択

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イギリスの首相テレサ・メイが、所謂Hard Brexitの方向性について言明した。ごくかいつまんで言うと、EUの単一市場を脱退してでも移民の流入を抑止するというものだ。移民の流入について、彼女の抱く危機感を反映した選択だと受け止められる。

冬の歌:山家集を読む

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山家集の冬の部には八十七首の歌が収められており、夏の部の八十首より多い。古今集では、冬の部はわずか二十九首で夏の部の三十四首より少なく、また万葉集では冬の歌は非常に少ないことに比べると、西行は比較的冬に感じることがあったといえなくもない。

芝居道:成瀬巳喜男

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成瀬巳喜男の1944年の映画「芝居道」は、長谷川一夫と山田五十鈴をフィーチャーした芸能物という点で「鶴八鶴次郎」と似ているが、筋書きは溝口の「残菊物語」に近い。どちらも、男の出世のために女が犠牲になる話だ。ただ、「残菊物語」は女が不幸な結末を迎えるのに対して、「芝居道」ではハッピーエンドでめでたしとなるところが違っている。

子どもの貧困

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この一・二年の間に、貧困な子どもを対象に食事サービスを実施する施設が増えているようだ。2013年に貧困児童対策の法律(子どもの貧困対策法)が施行されたのがその背景にあるとも指摘されている。実際、2013年には21しかなかったものが、今では300を超えているという。そういう施設は無論あった方がいいが、決して十分とはいえない。毎日サービスを実施しているのは少数だし、絶対数もまだまだ足りない。

四季山水図(冬):雪舟の山水画

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四季山水図(ブリジストン美術館蔵)四幅のうち冬図。このシリーズの絵の中では、構図がもっとも安定している。空の余白の部分は少ないが、その分背景の山と前景の景色との調和が画面を安定させている。左上の空の余白と右下の水の部分とが対応しているところも、構図の安定に役立っている。

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「1940年の夢(Le rêve de 1940)」と題するこの絵は、「ルーマニア風のブラウス」と対をなすものである。マティスはこの二つの作品を非常に気に入り、自分のアトリエの壁に、並べて架けていたほどだった。

九鬼周造「いきの構造」

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日本にはことば遊びの文化的伝統がある。駄洒落や地口など比較的単純なものから、俳文のような高度に知的な文章にいたるまで、ことば遊びの例は枚挙にいとまがない。九鬼周造の「いきの構造」という文章は、そうしたことば遊びを哲学の現場に適用したものだ。彼の場合には、ドイツに留学して西洋哲学を勉強したこともあって、そのことば遊びには洋の東西にわたることば遊びのエッセンスを凝縮したところがあり、それだけでも、日本のことば遊びの伝統に新たな要素を付け加えたという光栄を認めることができるかもしれぬ。

オバマケア廃止の政治的インパクト

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共和党主導の米議会が、いわゆるオバマケアの廃止に向けて動き出した。オバマケアについては、トランプも廃止の意向を示していたが、これは共和党が党是のようなものとしていたこともあり、共和党優位の政治状況を踏まえて、一気に廃止してしまおうということらしい。廃止後、どのような形でフォローするのか、いまのところ共和党は明らかにしていない。とにかく気に入らないこの制度をまず潰してしまえという思惑が透けて見える。

もみじ:西行を読む

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もみじは秋におきる現象であるから、和歌の伝統においても秋と深く結びつけて歌われてきた。今日もみじといえば、楓の紅葉を代表として葉が赤く色づく紅葉が思い浮かぶが、万葉集の時代には、葉が黄色く色づく黄葉のほうが注目されたようだ。万葉集の歌の大部分は、この「黄葉」を歌っており、万葉仮名にも「もみじ」に「黄葉」という漢字を当てている。たとえば次の歌、
  秋山の黄葉を茂み惑ひぬる妹を求めむ山道知らずも(万0208)
これは万葉仮名では、「秋山之黄葉乎茂迷流妹乎将求山道不知母」であり、もみじの部分に「黄葉」の字があてられている。

秀子の車掌さん:成瀬巳喜男

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「秀子の車掌さん」は、当時人気が盛り上がっていた十六歳の少女スター高峰秀子をフィーチャーした作品だ。いまならアイドル映画といったところだろう。それを成瀬巳喜男が監督した。女の生き方に拘った映画を作ってきた成瀬が、コメディタッチの少女映画を作ったわけだが、このときに成瀬は高峰が気に入ったのか、戦後大人になった高峰を起用して、日本映画の歴史を飾る一連の傑作を作った。成瀬と高峰のコンビは、小津と原節子、溝口と田中絹代のコンビと並んで、日本映画にとっては幸福な組み合わせだったといえよう。

習近平政権が日中戦争史を書き換え

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習近平政権が、歴史教科書における日中戦争史の記述を書き換える動きを始めたそうだ。これまでは、日中戦争の開始は1937年の盧溝橋事件とされ、それから終戦までの八年間を日中戦争とし、これを抗日戦あるいは八年戦争と呼んできた。それを変えて、1931年の満州事変を日中戦争の開始とし、この戦争を十四年戦争と呼ぶべく、歴史教科書の現場に指示したというのである。

四季山水図(秋):雪舟の山水画

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四季山水図(ブリジストン美術館蔵)四幅のうち秋図。東京博物館蔵の四季山水図秋図が、画面中央の広い部分に雲煙を配し、それで以て画面を上下に二分しているのに対して、これは背景の山と前景の自然とを近接させて、しかも明瞭な線で描かれている。

中上健次「枯木灘」

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「枯木灘」は、「岬」の後日譚という体裁をとっている。「岬」の中で「かれ」という代名詞で言及されていた二十四歳の主人公が、「秋幸」という固有名詞を持った二十六歳の青年として出てくる。人物の輪郭が明確になったのと平行して、舞台設定も明確になっている。「岬」では紀州のどこからしいと思わせていただけだったが、この小説の中では、熊野新宮の門前町の、路地と言われる、周囲から孤立した特殊な空間が舞台である。

人情味あふれる話を聞く

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筆者が四方山話の会に加わってから丁度一年がたった。八丁堀のおでん屋で数年ぶりに旧交を温めた後、ほぼ毎月のように宴会を開いては、メンバーのそれぞれが自分の半生を語った。そんな話を聞かされると、自分とは違った人生もあったのだと、感慨深く思うこともある。それが会を重ねて、今宵は岩子が語り部をつとめることとなった。同席したメンバーは、岩子と筆者のほか、石、柳、田、六谷、小、浦、福の諸子、合わせて九名であった。会場はいつもの通り新橋の古今亭である。

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「ルーマニア風のブラウス(La blouse roumaine)」と題したこの絵は、非常にシンプルに見えるが、シンプルなだけにいっそう、構図の決定にはかなりな時間を要した。マティスがこの絵を完成させるにあたって描いた習作が十三枚も写真に残されていることからも、そのことがわかる。

はたらく一家:成瀬巳喜男

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成瀬巳喜男の1939年の映画「はたらく一家」は、成瀬の作品系列の中では異色の作品である。女を描くことに拘ってきた成瀬がこの映画の中で描いたのは、女ではなく、「はたらく一家」つまり労働者の家族の生活ぶりである。この映画が公開された頃の日本は、労働者世帯の生活は苦しく、その意味では社会的弱者の立場にあるといえなくもなかったので、同じく社会的弱者である女の立場に通じるものがないとはいえなかったが、やはり女とはたらく一家では、かなり色彩を異にするというべきだろう。

労働と相互行為は、言語(記号表現)と並んで、精神の自己形成のうえで三つの決定的な契機をなすものである。カントが言うように、まず自己意識としての精神があって、そこから人間の間の相互行為や自然を対象とした労働、あるいはコミュニケーションが生じてくる、のではない。逆に労働・相互行為・言語の弁証法的な過程のなかから自己意識としての精神が生まれてくる。こう喝破したのは、「イエナ精神哲学」を講義した頃の初期のヘーゲルであった。ヘーゲルはこの三つの弁証法的な要素から相互行為(相互承認)を重点的に取り出し、それをもとに精神現象学の体系を作り上げたが、それはハーバーマスにとっては、ヘーゲル思想の豊穣さが損なわれる結果につながった。やはりこの三つの要素をともに生かす形で、ヘーゲルの初期思想を再構築し、そこから現代の問題性に対応できるような哲学を構築する必要がある。このような問題意識に導かれながら、ハーバーマスは「労働と相互行為」と題する小論を書いたのだと思われる。この小論はだから、初期ヘーゲルの再発見をテーマにしたものと言える。

月:西行を読む

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日本の詩歌の歴史において月が秋と深く結びつくのは平安時代後半以降のことだ。中国での観月の風習、これは旧暦八月の十五日に行われたが、その風習が平安時代の半ばに入ってきたことが、秋と月を結びつけるきっかけになった。日本人は九月の十三夜にも観月をするようになったので、月と秋の結びつきがいよいよ強まったわけである。

鶴八鶴次郎:成瀬巳喜男

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女の立場に立って男女の絡み合いの理不尽さを描き続けた成瀬の作品としては、「鶴八鶴次郎」は一風変った作品だ。例によって男が愚かなことはいいとして、女のほうもそれにおとらず愚かだということになっている。互いに好いた間柄にかかわらず、つまらぬ意地を張り合ったために、結ばれることができない。そんなもどかしさをこの映画は描いているのだが、彼らがつまらぬ意地を張り合うのは、彼らが因習的な芸能の世界に生きているからだ、そんなメッセージも伝わってきたりして、成瀬の映画としては、ひとひねりを感じさせる。

今年行なわれるフランス大統領選で、極右政党国民戦線(FN)の党首マリーヌ・ル・ペンが勝つ公算が強まっている。もしそうなった場合には、強烈なナショナリストを標榜する指導者がヨーロッパの大国に現れるわけで、EUはおそらく解体するだろうと予想される。そればかりでない、欧米における政治地図が一変するような事態が起こる可能性もある。

四季山水図(夏):雪舟の山水画

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四季山水図(ブリジストン美術館蔵)四幅のうち夏図。東京博物館の四季山水図夏図と比較すると、その相違が大きいことがわかる。まず構図。後者は画面上部の中ほどに、背景として岩山を配し、その前面に近景として山里を描いていたが、こちらは、画面中ほどから左手方向に絶壁を配し、その絶壁の真下に山里を描いている。また、後者には雲煙があるのに、こちらはそうしたものはなく、すっきりと描かれている。

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マティスは、いろいろなタイプの絵を描いたが、もっともマティスらしさを感じさせるのは女性の肖像だ。いろいろな技法を用いて、時代ごとに描き方は変遷したが、女性の美、それは肉感的な美といってよいが、それをキャンバスの上に定着させようとした。一群のオダリスク像はそのもっとも完成された形だ。

伊藤整「近代日本人の発想の諸形式」

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題名を見る限りでは、近代日本人をモチーフにした本格的な文化論を予想してしまうが、これはそんな大げさなものではなく、日本の近代文学のある種の傾向性について指摘したものである。ただその傾向性が、近代日本人の典型的な発想のスタイルを反映しているために、それを論じることで、近代日本人についての本格的な文化論の、少なくとも序論のような役割は果たしている。

鳥獣:西行を読む

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秋にゆかりのある鳥獣といえば雁と鹿があげられる。万葉の時代以来この二つは好んで歌われてきたし、山家集の秋の部にも鳥獣の代表として取り上げられている。面白いことにこの二つとも、姿よりも声に関心が向けられている。初雁の声は秋の到来を知らせるものとして、鹿の声は配偶者を求める求愛の徴として捉えられている。

妻よ薔薇のやうに:成瀬巳喜男

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「妻よ薔薇のやうに」(1935)は、成瀬巳喜男の戦前の代表作である。女を描くことを生涯のテーマとした成瀬は、この映画のなかでは妾を取り上げている。妾は、いまでこそ不道徳なものとして、妾をつくる男も、男の妾になる女も、白い目で見られるようになったが、戦後しばらくの間は妾を蓄える男たちはまだ沢山いたし、戦前では、妾を蓄えることは男の甲斐性などと言われて、かえってうらやむべきことのように受け取られていた。そんな戦前の時代の妾の位置のようなものについて取り上げたのが、成瀬のこの映画だった。

トランプ「北朝鮮挑発ツイート」の真意

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トランプがツイッター上で、北朝鮮の核ミサイルがアメリカ本土を直撃する可能性について、「そんなことは起こらない」と北朝鮮を挑発するかのようなことをツイートした。トランプがどんな根拠でこんなことを言ったのか、世界中が喧々諤々の反応を示している。

四季山水図(春):雪舟の山水画

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ブリジストン博物館所蔵の四季山水図四幅は、落款や押印がないが、雪舟の真筆と断定されている。同じく四季山水図でも、東京博物館所蔵の在明中のものに比べて、一回り小さい。製作時期は、画風に中国の影響が見られるところから、帰朝後間もない時期に描かれたのだと考えられる。

岬:中上健次

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「岬」は、小説としてはオーソドックスな構造をしている。時間は直線的でかつ単線的に流れてゆくし、空間は一定の範囲内に収まっているし、出来事はいずれも現実的で、空想的な要素に乏しいし、何より人物たちが地に足をついた生き方をしている。その足のつき方に多少の癖があるにしても、大多数の日本人の生き方の軌道を極端に外れるものではない。こういう構造をした小説は、日本の文学の伝統の王道を行くもので、日本人の読者に一定の安心感を与える。こういう伝統をもっともよくあらわしたのが私小説であったわけだが、中上のこの小説はそうした私小説の伝統の延長線上にあると受け取ってよい。

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マティスには、以前手がけたモチーフを、新たな視点から再構成した作品群があるが、「音楽(La musique)」はその代表的なものだ。これは、1910年の大作「音楽」を意識した作品であるが、一見すると、構図と言い色彩と言い、大分違った印象を与える。前の作品は五人の男たちをモデルにして、構図も色彩もごくシンプルだが、こちらは二人の女をモデルにして、構図は多分に装飾的であるし、色彩も華やかだ。だが相違の中で最大のものは、「音楽」の表現の仕方だろう。前の作品からは画面から音があふれ出してくるように感じられるのに対して、この絵からはそういう感じは伝わってこない。むしろ沈黙が伝わってくる。ギターにストリングが張られていないのは、それが沈黙していることの視覚的な表現なのだ。

夜ごとの夢:成瀬巳喜男

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「夜ごとの夢」は、「君と別れて」とともに成瀬巳喜男のサイレント映画の代表作だ。「君と別れて」は、芸者をしながら女手ひとりで息子を育てる母親と、ぐうたらな父親を持ったおかげで家族の犠牲になる若い女を、哀愁をこめて描いたが、この作品は、生活力のない男のために苦労させられる女を描く。終生女の生き方に拘った成瀬としては、ひとつの典型というべきものだ。

高齢者は75歳以上:老人の概念が変わる

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高齢者について世界共通の厳密な定義があるわけではないが、いまの日本では一応65歳以上ということになっている。老人福祉の法体系は、65歳以上を高齢者として定義しているし、実際の社会生活においても、65歳以上の人を、本人も他人も高齢者として自任し遇している。筆者は今現在68歳であるが、こうした社会通念に従う形で自分自身を高齢者として認識しているし、他人も筆者を高齢者として遇してくれる。

ユルゲン・ハーバーマスの論文集「イデオロギーとしての技術と科学」は、彼の初期の仕事で、その後彼が展開する思想の萌芽のようなものが提起されているということだが、なかでも最も力を入れて論じているのは、後期資本主義における科学・技術の問題だ。この問題を彼は、ヘルベルト・マルクーゼへの批判を通じて論じている。マルクーゼは資本主義の発展における科学・技術の役割の重要性を強調した始めての思想家というふうにハーバーマスは評価したうえで、マルクーゼが科学・技術がもっぱら資本主義を延命させる役割を果たしていることを指摘し、それへの対抗として、人間の解放につながるような科学・技術のあり方を模索したことを厳しく批判した。ハーバーマスによれば、科学・技術のあり方は、ただ一つしかないのであり、マルクーゼのいうような人間の解放を目指すような別の形の科学・技術のあり方などというものは存在しない。だから、もしもマルクーゼのいうような人間の解放を目指すなら、現存する科学・技術を前提として、それをどのように利用したらいいかを考えるのがまともなやり方だ、とハーバーマスは言うのである。

秋の草花:西行を読む

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古代の日本人は、秋の花の中でも萩の花をとりわけ愛したようで、万葉集には萩の花を歌った歌が百四十二首もある。花を歌った歌の中では最も多い。萩は草花ということもあり、梢に高く咲く梅や桜の花に比べて地味ではあるが、草の茎に沿って小さな花が密集するので、遠目にも目立つ。そんなことから秋の花の代表として、歌にも多く歌われたのだろう。

君と別れて:成瀬巳喜男

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成瀬巳喜男は戦後の活躍が目覚しいので、戦後の作家だという印象を持たれているが、サイレント時代から映画作りをはじめ、戦前に一定の境地を確立していた。1935年の「妻よ薔薇のように」が戦前の頂点とすれば、1933年の「君と別れて」はサイレント映画の代表と言える。戦争体制が本格化し、戦意高揚映画が国策として作られるようになると、成瀬は停滞期に入り、戦中・戦後にかけてB級映画ばかり作った。その彼が映画作家として立ち直ったのは、1951年の「めし」をきっかけにしてのことである。それ以後は死ぬまで、良質な作品を作り続けた。

四季山水図(冬):雪舟の水墨画

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四季山水図四幅のうちの冬図。峨々たる岩山を背景に山里の寒々とした風景を描いている。背景の岩山も左手前景の岩山も雪をかぶって白くなり、山里の家々も雪に埋もれて沈黙の風情をかもし出している。四季山水図四幅のなかでは、もっとも日本的な雰囲気を感じさせる。

能「西行桜」を見る

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最近NHKテレビが能の放送をあまりしなくなったので残念に思っているが、正月元日には縁起をかつぐということもあり、めでたい能を放送している。今年の題目は「西行桜」だった。これは世阿弥の自信作で、閑寂幽玄と華麗典雅の趣を兼ね備えているというので、正月の演目としては相応しい。昨年人間国宝になったばかりの観世流野村四郎師がシテをつとめ、これも人間国宝の大蔵流山本東次郎師が間狂言をつとめ、ワキの西行を福王茂十郎がつとめた。

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「バラ色の裸婦」のモデルに起用したリディア・デレクトルスカヤを、マティスは非常に気に入り、続いて「青の婦人(La dame en bleu)」と題する比較的大型の絵のモデルにも使った。彼女のことをマティスは「アマゾネス」と呼んだが、それは彼女の大柄な体格と常軌を逸したプロポーションを評してのことだった。この絵から連想されるように、リディアは十頭身以上の巨躯の女性だったようだ。

徳川時代中期の思想家安藤昌益は、生前はほとんど無名だったし、死後も世に現れることはなかった。明治三十二年になってようやく、狩野亨吉によって掘り出されたが、一部の人の注目を浴びただけで、広く知られるまでには至らなかった。その名が日本人に広く知られるようになるのは、皮肉なことに日本人ではなくカナダ人であるハーバート・ノーマンのおかげである。ノーマンは、昌益に関する研究を「忘れられた思想家安藤昌益のこと」と題して昭和二十五年に発表したのだったが、多くの日本人はこのノーマンの研究を通じて、安藤昌益の意義を知ったのである。

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Smile now, cry laterとは、多少の意訳をすると、「あとで吠え面をかくな」ということだ。先日の安倍・プーチン会談の成果を皮肉っている。この会談で、安倍総理はプーチンにさんざんコケにされたうえ(安倍を長時間待たしたことや安倍からのプレゼントの申し入れを拒否したことなど)、肝心な北方領土問題に関しては、1956年の日ソ共同宣言以前の状態に戻ってしまった。誰が見ても安倍総理は全面敗北したわけだが、本人は機嫌よく笑って見せた(写真はAPから)。それを、今は笑っていられるが、後で吠え面をかくな、と警告しているわけだ。

秋の虫:西行を読む

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秋風と並んで秋の到来を感じさせるものに秋の虫がある。蝉の声がだんだん弱まってついに聞こえなくなる頃、それに代わって虫の声が聞こえ出す。それが秋の風の吹き始める頃にあたるので、あたかも秋風に乗って秋虫の声が聞こえてきたかの感じを抱かせる。

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「現金に手を出すな(Touchez pas au grisbi)」は、初老のジャン・ギャバンをフィーチャーしたギャング映画である。もしギャバンが出ていなかったら、ただのB級映画だったろう。ギャング映画にしては迫力に欠けるし、筋の展開も冗漫だ。ギャバンが出ていることで、ピリッとしまり、見るに耐える映画になっている。こういう俳優は実に奇特なものだ。日本でもかつては片岡千恵蔵のような名優がいて、それが出ているだけで、どんな映画でも見せる映画になったものだ。

平成廿九年を迎えて

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毎年、新年の御挨拶に際しては、その年の干支を下手な水彩画に描いてご紹介するのを例としていたが、今年は十二年前に描いた鶏の絵を以て代替したい。ということは、筆者が自分のサイトを開設して以来すでに十二年が経過したというわけだ。人間年をとると、時の立つのが早く感じられるというが、小生の場合にも、この絵を改めて眺めると、つい先日描いたように感じられる。それだけ過ごした年月が薄っぺらだったということだ。これを慨嘆すべきなのか、慶賀すべきなのか。

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