デカメロン(Decameron):ピエル・パオロ・パゾリーニ

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「デカメロン」は、十四世紀のイタリア人ボッカチオによる小話集である。十人の男女がペストの災いを逃れてある邸に避難し、気晴らしのために十日間にわたって各自が一話ずつ小話を披露し、合計百の小話が語られる。筆者が原作の日本語訳を読んだのは学生時代のことだから、内容の詳細は忘れてしまったが、卑猥な話が多かったように記憶している。男女が気晴らしに喜ぶ話だから、話題が下に傾くのは無理もなかろう。

パゾリーニは、この百の小話のなかから十話ばかりを選び、それを脈絡なくつなぎ合わせて一本の映画に仕立てた。変則のオムニバス映画と言ったところだが、映画全体を貫くような共通のコンセプトはない。ただ原作の中から面白そうな話を取り出して、それをつなげただけだ。話の中で卑猥な部分が多いのは、猥談が好きなイタリア人の国民性をあらわしていると考えてよいだろう。同じく猥談が好きなフランス人に比べれば、イタリア人はあっけらかんとしていて、セックスを食事と同じような日常の要素として自然に楽しんでいる。そこには性にまつわるタブー意識はない。セックスは人間の生きる喜びにとって、もっとも本質的な要素になっている。

冒頭は、若い女にだまされた間抜けな男の話である。女の色気に惑わされて家に招き入れられた男が、俄に便意を催して便所に入ったところ、便所の踏み板が外れて糞つぼの中に落ちてしまう。そのあげく財布や上着など所持品の一切を巻き上げられて外に放り出されるという話である。

二話目は、聾唖を装って修道院に入りこんだはいいが、尼さんたちからセックスの相手をさせられて閉口する若い男の話だ。この男は九人の若い女の相手をさせられた挙句に、老尼の院長の相手まで強要されるのだが、あまりの苦しさに聞くに堪えない言葉で老尼を罵る。それを老尼が、おしがしゃべったのは奇蹟が起きたのだと勘違いして祝福するという話である。

この後、間男をする女の話、ナポリで犯罪を犯した男がロンバルディアに行きそこで食あたりになって死ぬ話、逆にロンバルディアの画家がナポリに出かけていって、そこの寺院のために壮大な壁画を作る話、年端のゆかぬ少年少女がロメオとジュリエットなみの逢引きをする話、妹を若い男に寝取られた三人の兄たちが、相手の男を田園に連れ出して殺す話等々が続く。

最後には二人の仲のよい男たちが出てきて、先に死んだほうが死後の様子を生き残ったものに報告するという約束をする。そこで先に死んだ男が生き残った男の夢枕に立って、地獄の様子を詳しく語る。獄卒から懺悔を求められた男が生前におかした罪を次々と白状するが、どれも大したことではない。そこで一番重い罪を白状しろと言われて、姦淫の罪を白状したところ、そんなものは勘定に入らぬと笑い飛ばされる。それを聞かされた生き残った男は、姦淫は罪の数に入らぬと安心し、喜び勇んで人妻と寝に行くのである。

セックスとならんでイタリア人の好きなのは食い物だが、この映画のなかでも食い物の話は出てくる。面白いのは、北部イタリアではスパゲティがないと言っていることだ。ロンバルディアの人間はスパゲッティなどではなく、肉とジャガイモを食っているというのだ。いつもスパゲッティばかり食っていた男は、食いつけない肉とジャガイモを食わされて深刻な痢病に陥ってしまうのである。

スパゲッティといえばトマトがつきものだが、トマトは南アメリカが原産で、イタリアに入ってきたのは近世以降のはずだ。ところが十四世紀のイタリアを舞台にしたこの映画では、ナポリの連中はトマト・スパゲッティを食っている。これは愛嬌と受け取るべきだろう。

この手の映画では、女の裸体を見せることは珍しくないが、男の一物はなかなか見せないものだ。ところがこの映画では、男の一物も披露されている。修道院の老尼が男の着ているものをめくり上げて、またぐらにぶら下がった一物を観察するシーンがあるが、いかにもイタリア的にあっけらかんとしていて、一切いやみな感じは抱かせない。






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