岬:中上健次

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「岬」は、小説としてはオーソドックスな構造をしている。時間は直線的でかつ単線的に流れてゆくし、空間は一定の範囲内に収まっているし、出来事はいずれも現実的で、空想的な要素に乏しいし、何より人物たちが地に足をついた生き方をしている。その足のつき方に多少の癖があるにしても、大多数の日本人の生き方の軌道を極端に外れるものではない。こういう構造をした小説は、日本の文学の伝統の王道を行くもので、日本人の読者に一定の安心感を与える。こういう伝統をもっともよくあらわしたのが私小説であったわけだが、中上のこの小説はそうした私小説の伝統の延長線上にあると受け取ってよい。

だが、それにしても、中上健次のこの小説には常軌を逸したところもある。この小説は、複雑な血縁関係をテーマにしたものなのだが、その血縁関係のもつれが、日本の社会では決してありえないことではないものの、やはり普通の常識人の度肝を抜くようなところがある。人間というものは、なにかに度肝を抜かれたときには、自分がどうして度肝を抜かれたのか、そのわけを知りたくなるものだが、中上のこの小説は、人間というものは本来他人の度肝を抜くように作られているものなのだ、そしてそれは度肝を抜かれるものの存在を前提にしているのだ、というような曖昧な印象を与えるだけだ。それは印象であるから、かならずしも抜かれた度肝をもとに戻してくれるような明確さはない。

この小説は、「かれ」と名指しされる一人の男を中心に展開する。この男は複雑な血縁関係の網の目の中心にいる。両親がまともな結婚をしなかったために、「かれ」は母の手許で、母方の血族に囲まれながら成長し、現在もそのネットワークの中で生きている。この血族は色々な面で呪われたところがあり、「かれ」は親兄弟や親戚の一人ひとりにうんざりしている。しかも、この血族の内部で、(義理の間柄ではあるが)兄弟殺しといったおぞましい事態までおこる。それなのに亭主を殺された親戚の女は、亭主が監獄にぶち込まれた直後に若い男を自分の家に入れたりする。普通の人間的な常識が通じない世界に、彼らは生きているわけである。

一方父方の血族との間では、父親も含めて一切かかわりのなかった「かれ」が、父親が妾に生ませ、しかも自分の妾にしている女、それは彼にとっては腹違いの妹にあたるわけだが、その女と、自分の妹だとわかっていながらセックスしたりする。ここまでくると、堕落というような生易しいものではない。人間が堕落を自覚する為には、堕落の意味を理解していることが前提だが、「かれ」は妹と交わることを堕落だとは思っていない。かえって愛しい女を抱くことができて、幸福だと感じている。「かれ」はそうした幸福感の高揚の中で、妹のワギナの奥深くに自分のペニスを入れるのである。

日本人は伝統的に、いわゆる性の乱れには寛容な民族であって、兄妹の近親相姦でさえ、古代の天皇をはじめとして例がないわけではないが、少なくとも現代に生きる日本人にとっては、中上がこの小説の中で描いた近親相姦は、グロテスクなものに思えるに違いない。兄妹の近親相姦は、獣でさえやらないことだ。それをあえてやるのは、獣以下の存在であることを自認するようなものだ。こういうのが今の普通の日本人の道徳感情だろう。ところが中上はそうした道徳感情を共有していないようだ。少なくとも、中上の小説に出てくる「かれ」は、妹と交わることに道徳的な罪悪感を微塵も感じない。彼が感じるのは、先ほども言及したように、愛しい女を抱いていることに伴う至福の感情なのだ。

こういう感情を抱きながら生きている人間をどう受け取ったらよいのか、普通の読者なら困惑するところだろう。日本の私小説の伝統の中には、岩野泡鳴とか徳田秋声とかいった破滅型の作家がいて、彼らの小説には彼らのコピーのような破滅型の人間が出てくるが、中上の「かれ」は、そういう破滅型の人間とも違っている。「かれ」はなにも破滅を求めて妹を抱くわけではない。愛しいから抱くのだ。その愛しいと思う感情が、世の中の常識から多少ずれているからといって、それを破滅と言ったり、堕落と言ったり、獣のようだといったりしたら、言われた「かれ」は面喰うであろう。

このように、中上の小説には、常識人の想像力を逸脱するようなところがある。その逸脱のよって来る所以について批評家たちはさまざまなおしゃべりをしたそうだが、結局は、中上の描いた世界の異常性が、日本に特有なあの差別の対象としての世界であることに帰着させる意見が多かったようだ。中上がこの小説を書いた1976年は、まだそうした差別が顕然としてあった時代だ。そこへ、自分自身がそうした差別される立場の出自であった中上がこんな小説を書いたというので、なかばは興味本位から、中上の小説の異常な部分を、人間同士の間の差別と関連づけて説明しようとするものもあったわけだ。差別が人間性をここまでゆがめる、というような議論である。

この小説は、字面のうえでは、差別を想起させるような言葉はほとんど出てこない。ただ地理に明るい者がこれを読むと、自ずから差別の対象とされた世界を描いているのだな、ということが伝わってくる。この辺をテーマにしだしたら、議論は果てもなく広がってしまうと思われるので、ここでとりあえず筆をおくことにしたい。






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