鶴八鶴次郎:成瀬巳喜男

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女の立場に立って男女の絡み合いの理不尽さを描き続けた成瀬の作品としては、「鶴八鶴次郎」は一風変った作品だ。例によって男が愚かなことはいいとして、女のほうもそれにおとらず愚かだということになっている。互いに好いた間柄にかかわらず、つまらぬ意地を張り合ったために、結ばれることができない。そんなもどかしさをこの映画は描いているのだが、彼らがつまらぬ意地を張り合うのは、彼らが因習的な芸能の世界に生きているからだ、そんなメッセージも伝わってきたりして、成瀬の映画としては、ひとひねりを感じさせる。

主人公の鶴八(山田五十鈴)と鶴次郎(長谷川一夫)は新内節の芸人である。男女の組み合わせのうち女の名を先に出すのは日本の伝統だ。彼らは二人一組で舞台に立ち、女の三味線に合わせて男が新内節をうなる。この二人が出る舞台はいつも満員だ。その満員の劇場の様子が繰り返し映し出されるのだが、それは戦前までこの芸能が大衆的な人気を誇っていたことを感じさせる。戦後になると、誰も新内など聞かなくなるし、芸人も角付けして歩くほどに落ちぶれてしまったが、戦前は歌舞伎に迫る人気を誇っていたと見える。なにしろ、帝国劇場での公演の話まであるのだから。

筆者などは、義太夫も新内も区別が付かないが、義太夫は歌舞伎の伴奏、新内はそれ自体で自立した芸能だったということのようだ。映画の中では、新内を歌うとは言わず、語るといっているので、語り物の伝統に立っていたのだろう。ものの本によれば、新内が芸能として確立したのは徳川時代中期以降のことで、比較的新しいジャンルだった。また滅びるのも早かった。それは義太夫が歌舞伎とともに今日まで命脈を保っているのに対して、新内がそれ自体完結した芸能だったという事情によると考えられる。

そんなわけでこの映画は、新内というものについての、貴重な記録ともなっている。この映画を見れば、新内がいかなるものだったか、およその見当がつくわけである。

鶴次郎と鶴八は子どもの頃から兄妹のようにして育った。鶴次郎が幼い頃に鶴八の母親のもとに弟子入りしたために、二人は小さい頃から一緒に芸を仕込まれた仲なのだ。鶴八が鶴次郎に対して上手に出るのは、自分こそ母の娘として芸能の師匠格をついでいるという自覚があるためだ。女といえども、自立した女は強い、ということを成瀬は言っているわけであろう。

そんな鶴八に対して、鶴次郎のほうは、芸能のうえでは自分が上だといういう自負があるから、一歩も引かない。鶴八は鶴八で、自分は新内の正統を継いだ芸人だと自負しているから、お互いいつもぶつかり合っている。この映画はそうした二人のぶつかり合いを、半ばコメディタッチで描き出している。何度か喧嘩を繰り返した挙句、遂に互いの思いを告白し、一度は結婚の段取りまでこぎつけるのだが、それも互いの強情のためにぶち壊しになる。やけになった鶴八は贔屓にしてくれている向島の旦那のもとに嫁入りし、ひとりになった鶴次郎は落ちぶれた挙句にすさんだ生活に陥ってゆく。

そこへ藤原鎌足演じる粋人の取り計らいで、二人は仲直りすることができ、もう一度二人で舞台に出る。大好評を博した二人の前には、帝劇で披露というまたとない話まで舞い込んでくるが、鶴次郎がその実現をはばむ。このまま二人の仲が戻るのは自分にはうれしいが、鶴八のためにはなるまいと考えるからだ。その辺は、男女の仲というにとどまらず、幼い頃から兄妹のように育って来た間柄でもあり、兄として妹の幸せを壊すのは忍びないと思ったからだ。

こんなわけでこの映画は、最後は鶴八の幸せを念じる鶴次郎が自分から身を引くところで終わる。映画としては、すなおな終わり方といえよう。素直だし、当時の日本人の道徳観念とも一致していたに違いない。

鶴八を演じた山田五十鈴はこの時まだ二十一歳の若さだったが、十分に成熟した女の色気を感じさせた。長谷川一夫のほうは、この時は三十を少し越えたばかりの男盛りで、人気絶頂だった。そんなこともあり、この映画は興行的には大成功したようである。

関連サイト:成瀬巳喜男の世界 





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