人情味あふれる話を聞く

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筆者が四方山話の会に加わってから丁度一年がたった。八丁堀のおでん屋で数年ぶりに旧交を温めた後、ほぼ毎月のように宴会を開いては、メンバーのそれぞれが自分の半生を語った。そんな話を聞かされると、自分とは違った人生もあったのだと、感慨深く思うこともある。それが会を重ねて、今宵は岩子が語り部をつとめることとなった。同席したメンバーは、岩子と筆者のほか、石、柳、田、六谷、小、浦、福の諸子、合わせて九名であった。会場はいつもの通り新橋の古今亭である。

顔が揃ったところで、先日柳子が受けたという心臓の手術が話題になった。不整脈がひどいので、心臓に物理的ショックを与える手術を受けたというのだが、それが麻酔をせずにカテーテルを突っ込まれ、ぐいぐいと心臓を刺激されるので、すさまじい痛さだったそうだ。だがこうしたほうが手術の効き目がよいというので、我慢したよ、そう柳子は言うので、筆者などは麻酔なしで直腸に内視鏡を突っ込まれただけで失神しそうになったくらいだから、さぞ痛かっただろうとため息が出たのだった。

そこで岩子が一枚のレジュメを皆に配った。9ポイント活字で組まれた年表のようなもので、びっしりと文字が書いてある。老眼鏡をかけないととても読めない。それを岩子が参照しながら自分の半生を語り始めた。

自分は就職活動が遅れたせいで、商社や銀行などには受け付けてもらえず、メーカーくらいしか残っていなかった。そこでさる素材産業に就職した。旧財閥系の非鉄金属企業で、その世界では古い歴史を持ち、一応最大手と呼ばれた会社だ。本社は丸の内の一角にある。三菱村のビルの一つを借りている形だ。ここで入社後まもなく隣接する三菱重工ビルの爆破事件が起り、自分の同僚も巻き添えを食って死んだ。自分も死んでいたかもしれない。

本社の経理部というところにまず配属された。この経理部というのは、社内出世コースの王道で、自分が在職中に仰いだ社長六人のうち三人はここの出だ。だから自分ももしかしたら社長になれたかもしれない。ところがなれなかったのは、採用されて早々労働組合運動に熱を上げ、どうも会社ににらまれたかららしい。

入社三年後に北海道の営業所に配置換えになった。島流しのようなものだから、仕事が用意されていたわけではない。自分で仕事を作らねばならない。そこで自分は鋳鉄を自分の領域に選んだ。これはそれまで誰もやらなかったことなので、自分が開拓者というわけだ。我が社で生産している金属材料を用いて、鋳鉄製品を作り、それを加工して売るというのをコンセプトにした。これは五・六年で黒字化した。この仕事で一番勢力を傾けたのは、鋳鉄でカー・シュレッダーを作るというものだ。カー・シュレッダーというのは、巨大なシュレッダーで車両を破砕する装置だ。そうして破砕した鉄くずを後進国に売る。昔は日本が受け入れていたくず鉄を、今度は日本が外国に売るようになったわけだ。

その他に、し尿処理施設のプラントが思い出深い、と言うので、し尿というのは海に流すものではないのかね、と聞いたところ、いやそうではなく、浄化装置を用いて無害化するのだよ、と言うので、下水処理施設のようなものかと重ねて聞いたところ、そうだと言う。そのし尿処理のプラントと鋳鉄がどう結びつくのか筆者にはよくわからなかったが、岩子にとってはその仕事が思い出深いのだそうだ。

北海道に十一年いて本社に戻された。外国企業との技術提携のプロジェクトが立ち上がっていて、自分はその要員となった。おかげでヨーロッパに何度か旅行する機会を得た。提携相手の企業からは大変な歓待振りで、七部屋付きのスイートルームに泊めてもらった。女のほかは何もかも揃っているゴージャスなホテルだったと岩子はいうのだが、その真偽については誰も確証は持てなかったようだ。

四十過ぎて鋳造品部の営業課長になり、その後三年で部長待遇になり、五十過ぎで九州の支店長になり、五十代なかばで本社の執行役員になった。そこまで行けたのは、北海道での鋳造ビジネスの成功が一定の評価を受けたということかもしれないが、自分としては、人間関係に助けられたのではないかと、いまでは思っている。自分が入社したときの上司は、その後会社のトップになったのだが、この人が折りにつけて自分に目をかけてくれ、上に引き上げてくれたのではないか、そんなふうに思っている。たんに業績を上げたというくらいで順調に出世できるほど日本の会社は甘くないからね、というのだ。

たしかにそうかもしれない。もしそうだとすれば、岩子は会社での人間関係に恵まれたということになる。最初に出会った上司に気に入られ、その人の人情味あふれる取りはからいで、逆境から引き上げてもらい、その後順調に役員まで行けたのだろう。それは実に感動的な話だよ、そう言ってみな感心した次第であった。

岩子の訪欧の話が出たところで、岩子外三人のメンバーでこの六月にもドイツに旅行する計画がある、ついては自分も是非同行したいという者があれば、申し出て欲しい、という話が出たが、なにしろ急なことではあり、希望する者はいなかった。小子などは、自分は人工透析の患者なので、とても外国に行けるどころではない。日本国内でも宿泊を伴う旅は無理だ。携帯用の透析装置は使えるのだが、やはり旅行となると色々不安が先立つのだよ、ということだった。

ここで次回の語り部は田子にという話が出たが、田子は目下母親の介護中で、今後はほとんど出られないかもしれぬ、だから語り部を申し付かるわけにはまいらぬが、例会の案内は引き続き貰いたい。出られるようであれば出たいから、と言うのであった。それでは、次回の語り部は、今宵は不在だが七谷にお願いすることとしよう、ということになった。

散会後、石、岩、浦の諸子といつものとおりブリティッシュ・パブに入ったが、去年の暮以上にすさまじい混雑振りだった。浦子などは、こんなにうるさいのではろくに話も出来ないから、次回からはもっと静かな店に入ろうと言い出す始末だ。ともあれここで、ドイツ行きの計画のツメを行った次第だ。

なお福子は、最近なにもやることがなくなったので、小さな子どもを相手に学習塾の先生をするようになったそうだ。自分の孫も可愛いが、他人の子でも小さな子は可愛いものだ、そう福子は言うのであった。





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