芝居道:成瀬巳喜男

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成瀬巳喜男の1944年の映画「芝居道」は、長谷川一夫と山田五十鈴をフィーチャーした芸能物という点で「鶴八鶴次郎」と似ているが、筋書きは溝口の「残菊物語」に近い。どちらも、男の出世のために女が犠牲になる話だ。ただ、「残菊物語」は女が不幸な結末を迎えるのに対して、「芝居道」ではハッピーエンドでめでたしとなるところが違っている。

もう一つ大きな違いがある。「残菊物語」が芸道にスポットライトをあてて、それを純粋な形で描いたのに対して、「芝居道」には戦争の影がさしている。この映画では、背景設定に戦争が大きく働いているほかに、劇中劇というべき舞台の展開のなかでも戦争が前面に出てくる。長谷川一夫演じる役者は、日露戦争の英雄を舞台で演じることで、観客に愛国心を吹き込む役割をしているのである。

これは、この映画が作られた1944年という時代にそもそもの原因があると言えよう。1944年と言えば、日本の敗色が誰の目にも濃厚になっていた時代であり、ともすれば国民の反戦気分が爆発しないでもなかった。だから戦争遂行者たちは、戦意高揚のためにあらゆる努力をしていた。映画もそのひとつの手段として使われ、多くの戦意高揚映画が作られた。「芝居道」は一見露骨な戦意高揚映画には見えないが、戦争を批判する視点は殆ど感じられないし、お国のために戦っている勇敢な兵士を尊敬する気持で満ちている。映画の始まる前に大きな字幕が登場し、それに「撃ちてし止まむ」と書かれているのは、映画の観客に対して、戦争を忘れるな、というメッセージを送っているわけだ。

だが、この映画は同時代の戦争を扱っているわけではなく、日露戦争の時代の話だということにしている。そうすることで、同時代の生々しい戦争の現実を多少希釈するとともに、戦争の大義について客観的な視点から考えてみようとの意図が伝わってくる。いづれにしても、戦争を通じて愛国心の本質とは何かについて観客に考えさせ、戦争遂行に国民大衆を一致協力させようとの思惑が透けて見えるのである。

戦争の扱い方はともかくとして、芝居の世界の描き方もかなり因習的である。しかもその因習的な世界を賛美しているようなところがある。題名の「芝居道」には、芝居とは単なる娯楽にとどまらず、人間の生きる道にかかわるようなことなのだというメッセージが読み取れるが、その道とは、映画を見てすぐにわかるように、個を殺して社会の因習に忍従するのが美徳だとする考え方にたっている。役者でさえ自分を殺して芝居道に精進しているのだから、それを見ている観客も、自分を殺して国のために尽くすのが当然だ、というわけであろう。

舞台は、大阪の芝居の世界。映画の主人公は一応長谷川一夫演じる役者と山田五十鈴演じる浄瑠璃語りということになっているが、二人の恋が前面に出ているわけではない。前面に出ているのは、芝居小屋の中の人々の動きだ。その動きの中で中心となるのが古川緑波演じる一座の頭取で、映画はこの頭取を中心にして展開しているようなところがある。というより、この頭取を中心にした芝居の世界そのものが、この映画の中核すなわち主演者なのだといえるほどである。

山田五十鈴が演じる浄瑠璃語りは竹本花龍という。実在の人物かどうか筆者にはわからぬが、義太夫節の家元につながる人なのだろう。「鶴八鶴次郎」では、新内節の演者たちが描かれていたが、この映画では新興芝居の役者と義太夫語りとの恋が描かれるわけだ。だが先述のとおりこの映画は男女の恋に焦点をあてているわけではなく、芝居の世界そのものがテーマなので、彼らの恋はさらりと触れられるだけである。しかも最後には二人が結ばれてめでたしめでたしとなるから、映画の筋書きとしては気の抜けたものになっている。

戦時中の成瀬の映画については、賛否それぞれの立場でかなり異なった評価がある。否定的に見る人は、上層部から戦意高揚の映画を作るように強制されて、いやいやながらそれに応えたために、映画に成瀬一流の気迫が感じられないというような見方をする。肯定的に見る人は、同時代に進行している戦争を正面から描かず、昔の日本人の因習的な人間関係を描くことを通じて、同時代の日本人の愚かさを成瀬一流のやり方であぶりだした、というような見方をしたりする。

この映画は、どう見たらよいのか。日露戦争という過去の戦争を通じて日本人の愛国心に訴えかけたというように見るのか、あるいは逆に戦争の愚かしさを暗示していると見るのか。どちらにしてもこの映画は、軍部によって目の仇にされなかったわけだから、ある程度は愛国的な作品だと受け止められたフシはあるといえよう。

関連サイト:成瀬巳喜男の世界 






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