ヨーロッパの学問の危機と先験的現象学:フッサールの時代批判

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「ヨーロッパの学問の危機と先験的現象学」はフッサールの遺書となったものだ。彼はこの著作のうち第一部と第二部を生前ドイツ国外で発表し、その後まもなくして1938年に死んだ。第三部は死後発表された。

この本が書かれた時代背景を気にせずに読めば、これは現象学の立場からヨーロッパの哲学の歴史をふりかえったものとして、フッサールなりの哲学史というふうに映る。フッサールは、この本を通じて自分の展開した現象学をヨーロッパの知的伝統のうちに位置づけたともいえるわけで、その意味では、フッサールなりの総決算といえる面を持っている。

しかし、この本をそれが書かれた時代背景と密接に関連させて読むと、これが単に哲学史を語ったものにとどまらず、同時代についての鋭い問題意識に貫かれているということがわかる。フッサールがこの本のもとになった講演を行ったのは1935年のことだが、それはあたかもナチスの台頭によって、ヨーロッパの知的伝統が大きな挑戦を受けていたときだった。ユダヤ人としてナチスの迫害を身に感じていたフッサールにとっては、ナチスの台頭は単に政治的な現象にとどまらず、ヨーロッパの知的環境全体が脅かされる事態として映った。この本の表題にある「ヨーロッパの学問の危機」という言葉がそうした事態へのフッサールの危機意識を反映しているし、そのもととなった講演のタイトル「ヨーロッパ人類の危機における哲学」にもそうした危機意識が強く込められている。

おそらくナチスを憚ってのことだと思うが、フッサールはこの本の中でナチスに具体的に言及することはない。ただ、ヨーロッパの文明とりわけ学問が深刻な危機に陥っているというのみである。そしてその危機に関して、その原因を究明し、そこから脱する方向を模索しようとしている。だが、その模索が成功しているようには見えない。彼はただ、ヨーロッパの学問の危機をもたらした原因にふれるだけで、そこからの脱出の方策までは思い浮かばない、といった口吻だ。そこには、同時代に対するフッサールの深い絶望感のようなものが感じられる。

ナチスによる文明破壊を正面から取り上げたものとしては、ホルクハイマーとアドルノによる批判哲学やアーレントによる全体主義論が第二次大戦中から戦後にかけて展開されたことが上げられるが、フッサールのこの本はそうした業績の先蹤となるものといえる。それは、フッサール自身がユダヤ人としてナチスの迫害の矢面に立たされたということや、彼の弟子であるハイデガーが公然とナチスに協力する姿勢を見せたという事情に駆られてのことでもある。時代に対する曇りの無い視線が、彼を駆って同時代の批判に向かわせたのであろう。

ナチスを名指ししていないのと同様に、フッサールはハイデガーをも名指ししてはいないが、ハイデガーの哲学がナチスの文明破壊に手を貸しているというふうに考えていることは伝わってくる。フッサールはこの本の中で、ヨーロッパの学問を危機に追いやったものとして、悪しき実証主義と捻じ曲がった主観主義を槍玉にあげているが、その捻じ曲がった主観主義はハイデガーの実存哲学を想起させる体のものである。フッサールの批判の重点は、表向きは悪しき実証主義のほうに置かれているが、哲学がその地盤とする日常世界の重要性を、今日の主観主義哲学が捻じ曲がって捉えていると批判するところなどは、もしかしたらフッサールは、ハイデガーに代表されるような主観主義哲学こそ、ヨーロッパの学問を深刻な危機に陥らせた最大の原因だと思っているようである。

そんなわけで、三部からなるこの本の眼目はヨーロッパの学問の危機を取り上げた第一部にある。その題名を「ヨーロッパ的人間の根本的な生活危機の表現としての学問の危機」としていることは、学問の危機が単に学問内部の現象にとどまらずに、ヨーロッパ的人間の根本的な生活危機のあらわれとして捉えていることを物語っている。学問、とりわけ客観的な対象を扱う実証的な学問がそれなりの効果を挙げているのに、それが危機に陥っているように見えるのは、ヨーロッパ的な人間が深刻な危機に陥っていることについて、それを学問が阻止し得ないばかりか、それを助長しているからだ、そうフッサールは言って、同時代の実証的な学問が、ナチスの暴力的な文明破壊を前に無力であることを強調する。それはほかならぬ学問の危機であり、その危機は学問が人間の生に対する有意義性を喪失したからだとフッサールは言うのである。

フッサールは、ルネサンスに始まる啓蒙の精神が人間性の発展に果たした役割を評価しながら、次のように言う。「あの、シラーの詩にベートーベンが作曲したすばらしい賛歌『喜びに寄す』こそは、この精神の滅びることのない証言なのである。今日においては、われわれはこの賛歌を思い起こすにしても、痛ましい思いを伴わないわけにはゆかない。あの賛歌とわれわれの現在の状況との対照ほど大きいものは考えられないであろう」(細谷恒夫責任編集)。こう言ってフッサールは、同時代のヨーロッパが野蛮な状態に陥っていることを、鋭く批判するわけである。この野蛮は、理性への信頼が滅びたことに由来する。「世界がその意味を得るところの『絶対的』理性への信頼、歴史の意味への信頼、人間性、人間の自由への信頼が滅びるのである・・・人間がこの信頼を失うとき、それは人間が『自己自身へ』の信頼、自己に固有な真の存在への信頼を失うことにほかならない」(同上)

第二部では、物理学的客観主義と先験的主観主義の対立を中心にして、現象学の立場からヨーロッパの哲学の歴史を振り返り、ヨーロッパの哲学がなぜ、今日の哲学の危機を防ぎ得なかったか、その必然的な道筋について考究する。それを踏まえて第三部では、先験的判断中止とか現象学的還元とかいった現象学の根本概念を説明しながら、われわれ人間がその存在の基盤としている日常生活世界の意味について論じている。その日常生活世界とは、デカルト的な意味での主観的な世界であるにとどまらず、ほかの人間を前提とした、いわば相互主観的な世界である、という具合に議論を展開させてゆく。フッサールの相互主観性の議論には、それとして限界はあるのだが、それを脇に置くと、人間という存在は必然的に他の人間の存在を前提すると考えるところが、この本でのフッサールの特徴である。そこからフッサールはある種のヒューマニズムを引きだしてくる。この書物におけるフッサールの主張の最大の眼目は、この、ほかの人間と共存する存在としての人間を論じるところにある。そう論じることでフッサールは、他者への配慮という視点を持たないハイデガーらの主観主義的な議論を暗に批判するわけである。

以上のフッサールの議論は、きわめて抑制された姿勢で進められ、ナチスやその強力者たちへの具体的な言及も無い。そのため、表面的には純学問的な議論として見え、要するにある視点からするヨーロッパ哲学の歴史的な闡明ではないかと思わせるところがあるが、よくよく注意して読めば、フッサールの言葉の一つ一つに、異様な同時代への厳しい批判が込められていることがわかるのである。





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