リンカーン:ホフスタッターのアメリカ政治史

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リンカーンといえば、アメリカ流民主主義の体現者であり、また奴隷解放に象徴されるようなヒューマンな政治家だったというイメージが強い。彼は六十万人以上のアメリカ人の命を奪うこととなった南北戦争を主導したが、それはアメリカという生まれて間もない国を、民主主義の理念のもとに再統一する為の戦いであって、この内乱を経ることによって、アメリカは強固な民主主義国家として生き残ることができた。そういう評価がいまでも支配的だが、ホフスタッターも基本的にはそういう見方に立ってリンカーンを積極的に評価する一方、多少冷めた視線から、リンカーンを相対的に見ているところもある。

ホフスタッターは、人間としてのリンカーンと、政治家としてのリンカーンを一応分けた上で、それぞれを別の基準から評価しているようである。人間としてのリンカーンは、生涯清廉潔白で、その志はつねに高かった。一方政治家としてのリンカーンは、一種の機会主義者であって、自分の信念に基づいて国民をぐいぐいと引っ張ってゆくタイプの指導者というよりは、対立しあう利害を調整するマヌーバリストだったと評価している。南北戦争さえ、確固たる信念と明確なビジョンに基づいて始めたものではなく、現実の流れに流されながら、いわばハプニングのような形で始まった。それが明確な戦争目的を帯びるようになるのは、戦争の遂行がそのような目的を呼び寄せたからであって、目的無しには政争を継続できないと考えたからこそ、リンカーンも自分の始めた戦争を理屈付けせずにはいられなくなった、とまあそんなふうにホフスタッターは捉えているようである。

人間としてのリンカーンの偉大さは、少年時代の体験に根ざしているとホフスタッターは言う。リンカーンの少年時代の有名になったエピソードは、まさしくリンカーンの人柄を物語っているのであって、彼は誠実で人間味あふれた一人の人間として、非常に魅力ある人物だった。彼が自分の少年時代の体験から得た信念とは、「自立独行の人間には機会が与えられているという信仰」(田口富久治訳)のようなものであったが、それは機会の平等を中心としたアメリカ流自由主義のジャファーソン的な表現を、当時それを忘れかけていたアメリカ人に思い出させるものであった。

自由と平等というアメリカ流の価値観は、リンカーンが属していた共和党が表向き主張したことでもあった。南部を基盤とする民主党は、人と財産とが矛盾した場合には、財産を優先させたが、そしてそれが奴隷制を支えたわけだが、共和党は人間を財産あるいはドルに優先させた、というのである。もっともここで人間として取り扱われているのは、白人だけであって、黒人は人間の範疇には入らなかった。リンカーン自身も、黒人を白人と対等な存在とは認めていなかった。だから、南北戦争後に黒人を解放したときに、彼らの扱いに困ったあげく、中央アフリカに植民地を作って、そこに解放された黒人を送り込もうと考えたほどであった。

リンカーンは当初から奴隷解放論者だったわけではない、とホフスタッターは繰り返し強調している。リンカーンは、南部諸州が奴隷制を採用していることは尊重していた。ただ奴隷制がアメリカ全土に広がることには反対だった。その理由は、奴隷制を全国的に認めると、貧しい白人が奴隷になる可能性が現実化するし、また北部諸州にも奴隷労働が普及すると、白人労働者の境遇が切り下げられ、アメリカは富者と貧者とに分裂した社会になってしまうと危惧したことにあった。それ故リンカーンは、奴隷制の拡大を防止することを主張したのであって、その廃止を主張していたわけではなかった。

黒人はともかく白人が奴隷の境遇に陥ることは、機会の平等を最大の価値とするリンカーンには耐えられなかったのである。人間は自分自身の主人であるべきだ、というのがリンカーンの信念であって、奴隷制はその信念と真っ向から対立すると考えたわけだが、といってリンカーンは、はじめから奴隷制の廃止を声高く叫んでいたわけではなかった。彼が奴隷制の廃止を大きな声で叫び始めるのは、南北戦争が泥沼化したからである。南部の抵抗が強いのに手を焼いた北部が、南部の抵抗を支えているのは奴隷労働による余力だと考え、南部の力をそぐ為には奴隷労働そのものを廃止しなければならない、そう考えるようになったのである。別に人間の平等とか、自由とか、そういう高尚な理念ではなく、南部の力の源泉である奴隷制を廃止しようとのごく打算的な思惑が、リンカーンらを奴隷制の廃止へと駆り立てた、とホフスタッターは分析して見せる。

一旦奴隷制の廃止を旗印に掲げると、それを合理化する理屈をつけねばならなくなる。ところが奴隷制の廃止のための理屈は、どうしても左がかったものにならざるをえない。というわけで、リンカーンは政治の都合に駆られる形で次第に左がかっていった。またそういう傾向を彼の周りの共和党の勢力も共有していた、というのである。

南北戦争が始まる前の1858年の演説で、リンカーンは次のように言っていた。
「私は主張します。私が何らかのやり方で白人種と黒人種の社会的・政治的平等をもたらすことに賛成していないし、またかつて賛成したことがなかったということを。私が黒人を投票者や陪審員にしたり、彼等に官職保持の資格を与えたり、白人と結婚することに賛意を表するようなことを過去現在を通してやっていいということを」(同上)

そのリンカーンが1864年に、奴隷制の禁止を歌った合衆国憲法修正代13条に署名するのだが、この条項は奴隷制と自発的でない隷属を禁止したもので、とりあえずはそれ以上のものではなかった。この時点のリンカーンは、黒人に積極的な権利を付与するという考えまではしていなかったのである。

ともあれ、「南部を連れ戻すこと、連邦を救うこと、秩序ある政府を回復すること、力では打ち勝ち難い原則を確立すること、以上のことを生命と犠牲を最小限にとめながらなすこと」というリンカーンのプログラムは、何とか実行されたわけである。これだけでもリンカーンの業績は偉大だった、というのがホフスタッターの結論のようである。







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