細見和之「フランクフルト学派」

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細見和之はドイツ現代思想研究者で「啓蒙の弁証法」の訳者徳永洵の弟子として、フランクフルト学派を主に研究してきたとあって、フランクフルト学派を紹介したこの本は実に目配りが聞いており、しかもわかりやすい。フランクフルト学派研究の入門書としては非常にすぐれているといえよう。先日読んだ仲正昌樹の「現代ドイツ思想」も、フランクフルト学派を中心に現代ドイツ思想を手際よく紹介していたが、そちらは文意の解釈が主体で、フランクフルト学派の思想史的な意義についての突込みが足りない。それに比べるとこの著作は、フランクフルト学派の思想内容はもとより、その思想史的・社会史的位置づけがわかりやすく論じられている。対象への向かい方が、仲正と違っているせいだろう。仲正は「思想業界」の一員を自認しているとおり、商品の効用を説明するような気軽さを感じさせるのに対して、こちらは対象へのコミットメントというか、対象への同情が感じられる。その同情が文章に熱を含ませ、それが読んでいる者にも伝わってくるといった具合なのだ。

ワルター・ベンヤミンとハンナ・アーレントは、厳密にはフランクフルト学派には含まれないと思うが、細見が彼らへ強く言及しているのは、問題意識に強い共通性があると考えるからだろう。それはユダヤ人としてナチスの暴圧にさらされ、その体験から自分の思想の源泉を汲み取っているということだ。ベンヤミンやアーレントに限らず、この本で取り上げているエーリッヒ・フロムやヘルベルト・マルクーゼもまた、マックス・ホルクハイマー及びテオドール・アドルノ同様亡命ユダヤ人として、ナチスの暴力に正面から立ち向かった。これらの人々に共通しているのは、ナチスの暴虐という歴史的な事件を前にして、一人の思想家としてそれにどう立ち向かうかということだった。だから彼らの仕事には、生身の人間としての生きた問題意識があったわけである。その問題意識を細見も共有しようとする姿勢がこの本からは伝わってくる。

ドイツ現代思想が、これら亡命ユダヤ人を中心としたフランク学派のナチス批判から始まったことには歴史的な意義がある。フランクフルト学派を実際に主導したのはホルクハイマーとアドルノで、ほかのユダヤ人はそれぞれ別の形で仕事をしたが、問題意識はフランクフルト学派と共通であった。つまり現代社会はなぜファシズムという鬼子を生み出したのか、ということである。その批判は単にファシズム批判にとどまらず、西洋文明全体の批判につながる。ホルクハイマーとアドルノによる「啓蒙の弁証法」は、そうしたトータルな西洋文明批判の書である。そういうふうに細見は位置づけた上で、ドイツ現代思想を腑分けしていこうとする。

これまで、日本でドイツ現代思想を紹介してものとしては、三島憲一の業績などがあり、それらを読むと戦後ドイツの思想は、ファシムズを生んだ母国の思想的な地盤への深い自己批判のようなものとして伝わってくるのだが、細見のこの本からは、戦後のドイツの思想がそうならざるを得なかった背景がよく伝わってくる。その点は、戦中における日本の全体主義体制に対してあまり自覚的に反省してこなかった我々日本人とは大きな違いだ。もっとも日本人は、思想というものは外から入ってくるもので、自分たちが主体的に作るものではないと思っているフシがあるので、これはこれで、止むをえないことなのかもしれないが。

フランクフルト学派の第二世代の指導者ユルゲン・ハーバーマスは生粋のドイツ人であり、しかも父親も自分自身もナチスの運動にコミットしていたという背景があるので、彼の現代ドイツ文明批判は、ドイツ人自身による本格的な自己批判となっている。しかも彼の場合には、ドイツ批判を超えて広くヨーロッパ文明の批判に及んでいるばかりか、それを通じて、新たなヨーロッパ文明を展望するような姿勢を見せている。彼が展開した公共性論とかコミュニケーション理論は、そうした新たな可能性にむけた概念セットで、これはもっぱら現代文明批判に徹したホルクハイマーやアドルノとは違った問題意識を持ち込んだといってよい。しかも彼の場合には、そうした現代文明批判を通じて、フーコーやデリダなどフランスの文明批判とも通底しあおうとする意欲も見られ、問題意識の普遍化が起っている。そこがナチスに痛めつけられた記憶をもつホルクハイマーら亡命ユダヤ人と生粋のドイツ人たるハーバーマスの異なるところだといえよう。

フランスの現代思想とドイツの現代思想とをつなげているのは、マルクス、ニーチェ、フロイトへの強い関心だと思われるが、この本では、フーコーなどフランスの現代思想とフランクフルト学派が、そうした共通する先行思想の読み方を通じて深くつながっているということを、とりあえずはヒントのような形で、提起している。英米系の思想家には、マルクスやニーチェへの関心はほとんど見られないから、これは世界の現代思想を考える上で、重要な視点だと思う。なお日本の思想業界が、大陸系とりわけフランスの思想を中心にして、それにドイツの思想を組み合わせて商売していることは、いまさら言うまでもなかろう。

ところで、フランスの現代思想家たちには、フーコーやデリダを含め、きわめて晦渋な文学的表現を好むものがあるが、それはドイツ人の思想家も同じで、特にアドルノの表現は黙示録的といってよいような、難解な代物である。「啓蒙の弁証法」の多くの部分はアドルノが書いたとされるが、全体が難解な印象を与えるこの書物の中でもアドルノの書いた部分はことに難解だ。そういう本を読解するという点では、前述した仲正の本は役に立つといえよう。細見は、この本の中では個々の書物のテクストまでには踏み込んでいない。






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