西行の出家(一):西行を読む

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西行の若い頃のことはあまりわかっていないが、数え年二十三歳で出家したということは、藤原頼長の日記「台記」に言及がある。以下、その部分(永治二年三月十五日)を引用する。

「西行法師来りて曰く、一品経を行ふにより、両院以下、貴所皆下し給ふなり。料紙の美悪を嫌はず、ただ自筆を用ゐるべしと。余不軽を承諾す。また余年を問ふ。答へて曰く、廿五なりと。去々年出家せり。廿三。そもそも西行は、もと兵衛尉義清なり。左衛門大夫康清の子。重代の勇士なるを以て法皇に仕へたり。俗時より心を仏道に入れ、家富み年若く、心愁ひ無きも、遂に以て遁世せり。人これを歎美せるなり」

出家して二年後に西行が一品経の書写供養を発願し、鳥羽法皇、崇徳上皇を始め貴所の賛同を得て頼長にも声をかけたところ、頼長が不軽品の書写を請合ったことが記され、続いて西行出家の経緯が言及されている。西行は在俗時から「心を仏道に入れて」おり、「家富み年若く、心愁ひ無きも」出家した為に、世間から賛美されたと言っている。この文章からは、西行の出家の理由について世間に噂がたっていたことを伺わせる。頼長はおそらく西行の口から直接動機を聞いて、その志に感じたのであろう。なお、西行がこの一品経の書写供養を思い立ったのは、同年の二月に待賢門院が落飾して法金剛院にこもったことと関係があると推測される。

この、西行が若い頃から「心を仏道に入れて」、その志を成就させる為に出家したという受け止め方は、おそらく一般的なものだったと思われる。「西行物語」もそういう立場から西行の出家のいきさつを語っている。この「西行物語」には虚飾の部分が多いとされるが、西行についての一般的な見方を反映しているとされるので、参考になるところが多い。この物語は西行の出家から始まり、その死に至るまでの半生を、西行の歌を引用しながら語っている。なかなか面白い読み物なので、以下随所でこれを引用しながら、西行の生涯を追っていきたいと思う。

「西行物語」は、若年の頃の西行すなわち佐藤義清が鳥羽法皇に愛されながら栄華を謳歌する一方で仏道に深く帰依していたことを強調しつつ、なかなか出家に踏み切れないでいたところ、友人の死に直面してついに出家に踏み切ったと書いている。日頃の出家への志が、友人の死によって固まったとするもので、西行の出家の理由を道心からとする見方の典型となるものである。

出家を決意した西行の心を読んだ歌として「西行物語」はいくつか上げているが、実際に根拠があきらかなのは次の歌である。
  空になる心は春の霞にて世にあらじとも思ひ立つ哉(山723)
この歌には、「世にあらじと思立ちける頃東山にて人々寄霞述懐と云事をよめる」という詞書がついているので(山家集)、西行の出家の動機をこめたものと知れるのである。

また、「玉葉集」は、「鳥羽院の御時出家の暇申すとてよみ侍りけり」として次の歌を載せている
  惜しむとて惜しまれぬべきこの世かは身を捨ててこそ身をば助けめ(玉2467)
この歌には、現世での身を捨てて来世の身を助けようとする西行の仏道への強い意志が感じられる。

「西行物語」はこの後西行が妻子への恩愛を振り捨てて、自ら髻を切り取り、西山の麓に日頃から相知っていた聖を訪ねて出家を遂げたと書く。その際に、「年頃身近く召し使ひける者」も一緒に出家し西住という法名をつけられたと書いているが、この西住は西行の召使なのではなく、幼い頃からの親友であった。この男とは西行は、以後もながらく親しい関係を続けることとなる。

西行があまりに若くして出家したので、寺の聖たちがいぶかったところ、西行は次のような歌を読んで、出家の気持を伝えたという。
  受けがたき人の姿に浮かみ出でて懲りずや誰も又沈むべき(聞201)
  世を捨つる人はまことに捨つるかは捨てぬ人をぞ捨つるとはいふ(西137)
  世をいとふ名をだにもまたとめ置きて数ならぬ身の思ひ出にせむ(山724)
一首目は「聞書集」のなかの「地獄絵を見て」の一つとして、二首目は「西行法師家集」から、三首目は「山家集」に「空になる」の一首につづけて、それぞれ載せられている。






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