安部公房「壁」

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安部公房を始めて読んだのは高校生のときであったが、その折に受けた印象は、直前に読んでいたカフカの模倣のようで、オリジナリティを感じることがなかった。そこで若い筆者は安部の作品を読む動機を失ってしまったのだったが、どうやらそれは早合点過ぎたようだ。というのも、最近になって安部の作品「壁」を読んでみて、たいへんぞくぞくさせられたからだ。これはこれなりにオリジナリティがある。たしかにカフカを思わせるところはあるが、安部らしい独創性もある。戦後の日本文学の中でも、かなりユニークなものなのではないか。そんな印象を受けたのであった。

安部は大正十三年三月生まれで、同十四年一月生れの三島由紀夫とほぼ同年代だ。戦後の文壇にデビューしたのもほぼ同時である。なぜこんなことにこだわるかというと、二人とも敗戦の時点以前に兵役年齢に達していたにかかわらず、徴兵を遁れて生き延びた。その生き延びた体験が、かれらの文学に独特のインパクトをもたらしたと考えるからである。三島の場合には、デビュー当時は露悪的あるいは審美的な作品を送り出したが、それらにはかなり観念的な傾向が現れている。審美的な作品でさえ観念的に陥るのは三島の特徴だが、それは文学という営みを素直に楽しむことができないという、ある種の屈折の反映だったと思われ、その屈折は徴兵遁れへのコンプレックスから来ているのではないか、そんなふうに思われるフシがある。安部の場合には、カフカ的な不条理さを表面に出した作品を出し続けたわけだが、それもまた、安部の徴兵逃れと深い心理的なかかわりがあるのではないか。「壁」を読んでみてとりあえずそんなふうに思ったところだ。

「壁」は、比較的短い二編の中編小説と、非常に短い四編の短編小説を収めたものだ。それらの話は相互にまったく関係がないのだが、雰囲気的には通じ合うものがある。その雰囲気とは、思いもかけず不条理な事態に直面した人間の抱く独特の感情に裏付けられたものだ。まったく思いもかけないことに直面すると、人間というものはどのような感じ方や振舞い方をするものなのか、どの作品もそうしたことを描いている。小説の描く不条理な事態は、カフカを想起させる体のものだが、それとはまた一味違った、安部らしさを感じさせる。

安部がこれらの中短編小説を書いたのは、敗戦直後のことで、日本はまだ社会的な混乱の極みにあったし、そこで生きていた人々もある種非日常的な世界を生きていたといえなくもない。それ故安部のこれらの小説は、多かれ少なかれ時代の雰囲気を反映したものということができる。そこは、時代を超越していたかに見せかけた三島とは大きな違いだ。安部は戦後日本社会の混沌を眼にして、そこにあふれている不条理性を小説という様式を借りて定着させようとした、そうも考えられる。

作品は一応三部形式をとっていて、第一部は「S・カルマ氏の犯罪」と題して、自分の名前を失った男の焦燥を描いている。第二部は「バベルの塔」と題して、これは自分の影を盗まれた男の悲しみを描いている。第三部は「赤い繭」と題して四つの非常に短い話からなっている。家を失った男の話、人間が液化する話、魔法のなかでしか生きている実感を得られない男の話、人肉でソーセージを生産することの有意義性について主張する話である。この一覧から読み取れるように、いずれも非日常的な世界、あるいは不条理な事柄についての話である。名前を失ったり、影を盗まれたり、人肉でソーセージを作ってみたりというのは、どうみても正常性の範疇からもれ出る事柄である。そうした非正常性をあたかも正常性の延長のようにさりげなく安部は描いている。そこに読者はショックを覚えるのだが、これらの小説が世の中に現れたときには、読者の多くは、それが変ったものだとは感じても、有り得ないこととは感じなかったようである。これくらいのことは、絶対に起りえないことではなく、場合によっては自分の身の上にも起るかもしれない、読者のなかにはそんなふうに感じた向きもあったそうだ。そう感じさせたのはおそらく時代の雰囲気だったのだろう。その雰囲気を、読者と安部が共有していたことで、比較的すんなりと、この作品が当時の日本人に受け入れられた、どうもそういうことらしい。

所収作品のなかで最もインパクトの強いものは第一部「S・カルマ氏の犯罪」だ。これは、名刺が持ち主の名前をかたって持ち主に成りすましたおかげで自分の名前を失ってしまった男の焦燥を描いているのだが、この男は名前を失っただけではなく、自分には明示されないある犯罪をめぐって訴追を受けているということになっている。理由のわからない事柄で訴追を受けるという点ではカフカの「審判」と共通するところがあるし、そんなことに若い筆者はカフカの二番煎じを感じたのだと思うが、カフカの場合には訴追の理由が最後まで明らかにならないのに対して、この作品の場合には、それらしい理由が語られている。

「なぜなら、もし裁判がなかったら、被告というものもなくなる。被告というものがなくなったら犯罪も不可能になる。犯罪が不可能であるということは、何か物を盗りたいと思うものがあっても、盗りえないということである。従って、物を盗りたいものが自由に物を盗れるためにこそ、裁判が必要とされるわけだ」。この理屈にもならない理屈が当時の日本の社会では立派な理屈であったということは、人間が生きるためには場合によっては物を盗らざるを得ないであろうし、もし物を盗らざるを得ない人間がいる場合には、自由に物を取らせてやろうじゃないか、という安部なりの倫理観がこの部分から伺われるというわけであろう。

だから、カルマ氏という名前らしいこの主人公は。同時代に生きていたすべての日本人を代表する形で裁判にかけられているともいえる。カルマ氏の犯罪は、キリストが全人類の原罪を背負っているように、当時の日本人の罪責を一身に背負ったのだといえなくもない。だがカルマ氏にとってひとつ喜ばしいことだったのは、この世界の果ての更にその外側に逃れれば、訴追からも逃れられるということだった。だがそれは、この世界の住人としての資格を失うことを意味してもいた。そういうわけで世界の果ての更にその外側に逃れたカルマ氏は、自分自身が強大な壁となって、自分をこの世界から隔絶させるに至るというわけなのである。この作品全体の題名として「壁」という言葉が選ばれたのは、世界からの超絶ということを、この言葉がよく顕しているためだろう。

人肉をソーセージの材料に使うという話は、浮浪者問題の解決策として浮浪者を殺してその肉を役立てようと政策提起したスウィフトを想起させる。そのスウィフトと同じような理屈を、「事業」の中の語り手は述べ立てる。

「私は近く食用を目的とする殺人の合法化を大臣に申請するつもりである。その具体的内容、特に殺人の手段についてはほぼ私案ができている。私は最近のアメリカにおける豚の屠殺工場を参考にして、生きたままの人間を全く人手をかりず、すべて機械の自動的操作により、機械から出て来たときにはソーセージになっているという方法を発見した。これは非常に意義ある発見ではないか。第一能率的だし、それに多分に人道的であるし、更に人力の機械化により原料としての人間を増加せしめるわけである。私はこの機械をユートピアと名づけた」

すさまじい理屈だが、これと大差ないことを言うやからは、どの時代、どの国にもいるものである。






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