出家後の西行:西行を読む

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「西行物語」は、西山で出家した西行はそのまま西山に滞在し、その後しばらくして伊勢に移ったとしているが、「山家集」などの記述によると、鞍馬山とか東山、嵯峨などを転々としていたようである。西行が出家後も都にとどまったのは、都に愛する女性、すなわち待賢門院がいたからだろう、と瀬戸内寂聴尼は推測している。

西行が出家直後に赴いたのは鞍馬山だったらしい。そこで僧としての修行を始めた可能性はある。鞍馬山はもともと比叡山延暦寺の系統であったが、この当時は真言宗にもゆかりがあり、西行が後に高野山に長くとどまったことを考えれば、まず鞍馬山で真言宗の僧として出発しようと西行が考えたことは十分にあり得る。

「山家集」には、西行が鞍馬山で読んだという歌が、次の詞書を添えて収められている。
「世を遁れて鞍馬の奥に侍りけるに、筧氷りて水まで来ざりけり。春になるまでかく侍るなりと申しけるを聞きて詠める
  わりなしや氷る筧の水ゆゑに思ひ捨ててし春の待たるる(山571)
これは、秋に出家して鞍馬山にこもった西行が、出家後初めての冬を迎えて読んだものだろう。出家して俗世と縁を切ったつもりでいたが、筧も氷る冬の厳しさに接して、浮世の春がなつかしくなった、と正直な気持を込めている。若い西行には、浮世に超然としていることがまだできないようだ。

また、「聞書集」には、北山で春を迎えた際の気持を読んだ歌が、次の詞書を添えて収められている。
「北山寺に住み侍りける頃、れいならぬことの侍りけるに、ほととぎすの鳴きけるを聞きて
  ほととぎす死出の山路へかへりゆきてわが越えゆかむ友にならなむ(聞235)
北山寺とは鞍馬山をさすと考えられる。ここで一冬を過ごした西行は、非常に辛い思いをした上に、ホトトギスの声が聞こえる頃になって、死出の山路をさすらうような大病を患ったのであろう。出家後最初の修行は、西行にとって非常に辛いものであったようだ。

「西行上人集」には、出家後東山で歌った歌が、次の詞書を添えて収められている。
「世を遁れて東山に侍りける頃、白河の花盛りに人誘ひければ、まかりて、帰りて昔思ひ出でて
  散るを見で帰る心や桜花昔に変るしるしなるらむ
昔は桜の花を愛でるあまりに散るところまで見届けたものだが、いまではそんな気にはなれない、それは自分の心が昔と変わってしまったからだろう、というような気持を歌ったものだ。これが何時ごろのことなのか、よくはわからぬが、西行は鞍馬山を降りたあとで、東山をはじめ都のあちこちを転々としていたようである。

西行は出家後嵯峨にも庵を結んでいるが、それは法金剛院にいる待賢門院への思慕がしからしめたのだろうと寂聴尼は推測している。そうだとしたら、西行は比較的早い時期に嵯峨に住んだと考えることも出来るが、詳しいことはわかっていない。西行は二十六歳の頃、伊勢を経て奥州へ旅しているが、それ以前に嵯峨に庵を結んだのか、あるいは奥州への旅からもどってからそうしたのか。待賢門院が亡くなるのは西行が二十八歳の時のことであり、その際には西行は嵯峨にいて、女院の葬儀を見守っている。

嵯峨にいた頃の歌がいくつか「山家集」に収められている。次の歌はその一つである。
「嵯峨に住みけるに、みちをへだてて坊の侍りけるより、梅の風にちりけるを
  ぬしいかに風わたるとて厭ふらむよそにうれしき梅のにほひを(山38)
梅の匂いは風を呼び寄せるという信念があったのだろうか。隣の主人はそのことを厭うているようだが、自分はこの風に乗ってただよってくる梅の匂いがうれしくてたまらないのだ、という気持を西行は素直に歌っているのである。






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