仲正昌樹「ハイデガー哲学入門―"存在と時間"を読む」

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アドルノの「本来性という隠語」を読んだ後で仲正のこの本を読むと、落差の大きさに驚かされる。一方はハイデガーの民族主義的・全体主義的傾向を徹底的に批判する意図で書かれているのに対して、こちらは初心者を相手にした入門書だという違いもあるが、同じ「本来性」という言葉についても、両者の受け止め方は大分違っている。アドルノはこの言葉に、ハイデガーの狭隘な民族主義を読み取っているのに対して、仲正の方はハイデガーの意図を尊重して、それを人間の「本来的な」生き方というニュアンスで、肯定的に捉えている。

本来性についての仲正のこうした捉え方は、ヘーゲル=マルクスの疎外論とのかかわりでハイデガーを捉えなおそうという意図にもとづいているようである。ヘーゲル=マルクスは「本来性」という言葉は使っていないが、人間の本質的なあり方を想定した上で、そこからの疎外と回復を論じた。これをハイデガーは非本来性と本来性との対立として展開したわけだが、そういう論理展開の仕方は、見方によってはヘーゲル=マルクスの疎外論と非常に似ている。また、人間の認識の座としての意識に哲学の土台を据えるデカルト以降のヨーロッパの伝統を脱して、存在そのものに光を当てる議論をしたことにも、ヘーゲル=マルクスとハイデガーには共通点があると見ているようである。

そこでハイデガーが「本来性」をどのように捉えていたかが問題になるが、仲正はハイデガーの提起した様々な概念を検証しながら、世界内存在としての人間(=現存在)が、共現存在(=他者)の存在を前提として成り立ているさま、つまり人間は孤立した抽象的な存在者ではなく、共同体の中に、その一員として生まれ、そこで自己を形成するものだとのハイデガーの論理を後追いし、そこにハイデガーの民族主義的・全体主義的な傾向がうかがわれないでもないと言うことで、アドルノをはじめとするハイデガー批判に一定の理解を示している。

仲正のハイデガー論のもう一つの特徴は、サルトルの実存主義とつなぎ合わせようとすることだ。サルトルの実存主義がハイデガーの概念を駆使し、ハイデガーの考え方に大きく影響されたことはサルトル自身も言っていることだ。サルトルはハイデガーを実存主義の先駆者であり、かつヒューマニストでもあると言った。それに対してハイデガーは、サルトルは自分とは何の関係もなく、自分は実存主義者でもなければヒューマニストでもないと言ったわけだが、「存在と時間」と「存在と無」を読み比べても、言葉の共通性以外に、さまざまな共通点があることは明らかだ。被投性とか先駆的決意とか投企とかいった概念で人間の本来的な生き方について究明してゆくところは、非常によく似ている。

もっとも大きな違いもある。サルトルの場合には、投企とは個人的な決意に支えられた孤独な行為というイメージが強いが、ハイデガーの場合、現存在が先駆的決意にもとづいて己を投企(=企投)するのは、共同体の一員としての生き方に向かってである、というような色彩が強く感じられる。サルトルにとって世界の束縛からの自己解放だったものが、ハイデガーにあっては、共同体という世界への自己の一体化となるわけである。

無論以上は粗雑な整理であって、ハイデガーの議論は精緻を極めている。しかし、あえて単純化して言えばそういうことになる。仲正はこうした単純化は、ハイデガーに心酔する学者たちの顰蹙を買うかもしれないと謙遜しているが、単純化によって、今まで見えなかったことが見えてくることもあるので、議論を整理するという意味でも、意義があるのではないか。






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