日独社会文化比較論を聞く

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四方山話の会の諸子といつもの通り新橋の古今亭で小宴を催した。今回の語り部は七谷子だというので、小生の外、福、岩、越、石、小、六谷、浦の諸子あわせて九名が参加した。小生が会場についたのは集合時刻より十五分も前だったが、それと前後して大方の参加者が集合し、時間どおりに現れた七谷子が遅刻の言訳をしなければならなかった。

七谷子は席に着くと、生ビールが手元に来るのを待たず皆にレジュメを配り、それに沿って自分史を語り始めた。

僕は大学を卒業したら大学院に行くことを決めていた。だが家庭の事情があって自活する必要に迫られていたので、公立高校の定時制の事務員の職につき、夜働きながら昼勉強するライフスタイルを続けた。大学院では哲学を専攻した。終了後はできたら大学に就職したかったが、なかなかそういうわけにもいかず、学校の事務職員をやり続けた。だがこれは自分にとっては楽しい仕事ではなかったし、また適性もなかったようだ。同僚や部下から冷たい視線が向けられるのを感じたが、それは僕の事務能力の低さによるものだと自覚した。そんなわけで、転職の機会をうかがっていたが、なかなか実現せず、アイデンティティの危機に直面したりして、悶々としていたところ、1987年に職場の研修制度を活用して、ドイツに半年留学する機会を得た。

ドイツではフランクフルトを拠点にして、全国のフォルクス・ホーホシューレを見て回った。これは日本で言えばカルチャースクールのようなものだが、営利企業ではなく自主的な団体がボランタリーに運営するものだ。このボランタリーな組織というのは、ドイツでは他にも色々あって、日本との違いを感じさせられた。日本にある町会のようなものはドイツにはなく、そのかわりに人々の横のつながりを目的としたボランタリーな組織がある。こうしたボランタリーな組織が社会を動かしているところがドイツのドイツらしさだ。それを見たことがきっかけで、僕はドイツのゾーチオ・クルトゥーア、すなわち社会文化に強い関心を抱くようになり、以後自分のライフワークともなった。

1991年に、友人の島子から、某国立大学が国費留学生予備教育の専門教員を募集しているから応募してみろと誘われて、応募したところが、運よく採用された。僕を面接した指導教官が僕によい印象を持ったようなのだ。ちなみにその教官は女性だった。僕には女性に好かれる何かがあるらしい。

この国費留学生予備教育プログラムというのは、日本政府の負担で海外から集めてきた留学生に、日本語を始めとする予備教育を一年間施し、それぞれ日本の大学に入学させるというもので、1954年から行なわれていたが、ちょうど専門教員のポストに欠員が出来て募集したということだった。だから僕はラッキーだったわけだ。最初は講師の資格で採用され、三年後に助教授、八年後に教授にプロモートされた。

仕事の内容は、三十名ほどの全寮制の留学生を対象に、日本語のほか日本についての基礎的知識を付与するというものだった。留学生は優秀な者が多く、東大や筑波大などの国立大学に入学した。彼らは国に帰るとそれぞれエリートになるので、彼らとのつながりを持つことは、色々な面でプラスになる。ドイツにもそうした人たちはいるので、自分がドイツに行くたびに交流を持っている。今度のドイツ旅行でも、できたらコンタクトをとりたいと思っている。

留学生の指導のかたわら、社会文化論や生涯学習論の講座を持って、一般学生に教えた。また、大学の社会教育プログラムの一つとしてドイツ社会文化調査旅行というものを組織し、毎年ドイツに行っている。年によっては応募者が一人しかおらず、その人が偏屈な人だったりして非常に消耗させられたが、まあ大体において楽しい旅行が多かった。

こんなわけで自分の人生は、前半は学校の事務員、後半は大学の教員ということで、それなりに自分らしく生きてくることができたのではないかと思っている。今は特に仕事をしていないが、機会があったら、やってもよいと考えている。諸君になにか心当たりがあったら是非紹介して欲しい。そう七谷が締めくくったところ、参加者からいくつか質問が出た。

まず石子から、このレジュメの一角に「Mと同棲」と書いてあるが、これは我々の共通の友人だった茂子のことか、という質問があった。「同棲」と書いたのは誤解を招きやすかったが、みんなもよく知っている茂子と数年間アパートで一緒に暮した、そのほうが家賃や生活費も安くなる。いま流行りのルーム・シェアリングを実施したと考えてもらいたい、そう七谷子は言って、みなの誤解を解こうとしたのだった。茂子とのルーム・シェアリングは茂子が結婚したことで解消されたそうだ。

留学生の出身国はどんな分布だったか、という問いについては、中国や韓国は少なく、南アジア諸国が多い、それには南洋の国々も含まれている、というので、それはどんな国だと聞いたところ、パプア・ニューギニアとかサモアといった国だとの答えだった。日本政府もなかなか地味な外交努力をしていると感じさせられたところだ。

そのほか色々な質問が出たが、大学教育にかかわる専門的な話が多かったので、大学教育とは縁のない小生にはいまひとつ現実感がわかなかった。

質疑応答がひと段落したところで、それぞれ好きなもので腹ごしらえをした。小生は梅とおかかのおにぎりを食った。その後次回のセッティングに移ったが、三月の半ばに秋子が東京に出て来るので、それにあわせて実施しようということになった。

散会後は、石・浦・岩の諸子と例の通りブリティッシュ・パブに入った。今宵も芋を洗うような混雑ぶりで、我々はキャッシャー兼配給口の横に付属する幅20セントほどの板をテーブル代わりにして、立ったままジャック・ダニエルスのソーダ割りを飲んだのだった。





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