汚れた顔の天使(Angels with dirty faces):1930年代のアメリカギャング映画

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「汚れた顔の天使(Angels with dirty faces)」は、ギャング映画のスター、ジェームズ・キャグニーをフィーチャーした作品だ。「民衆の敵」と並んで、キャグニーの代表作とされる。キャグニーといえば、ハード・ボイルド・タッチのアクションが売り物だが、この映画の中のキャグニーは、人情を重んじるヒューマンなギャングとして描かれている。ヒューマンなギャングとは形容矛盾に聞こえるが、それを矛盾と感じさせないのが、キャグニーの持ち味だ。

映画自体は傑作とはいえない。キャグニーの持ち味でもっているような作品だ。そのキャグニーと悪童時代からの親友で今は牧師になっている男との友情と、その牧師が眼をかけている少年たちとのかかわりを主なテーマにしている。最後には、この少年たちにまともな生き方をさせたいがために、彼らが崇拝するギャングのキャグニーが死を恐れる卑怯な人間として死んで行ったとみせかけることで、少年たちの更生を願うという、ギャング映画としてはちぐはぐなストーリー展開になっている。

タイトルの「汚れた顔の天使」は、英語では複数形になっているから、キャグニー一人を指すのではない。かといって、少年たちというもの不自然だ。この映画の中の少年たちは、天使のイメージとは程遠い。分別の無いただのチンピラである。そのチンピラに、キャグニーがギャングの心意気を教育し、牧師のほうは健全な精神が宿るように教導する。教導の主な手段は、少年たちにスポーツ精神を叩き込むことだ。そこで少年たちはバスケットボールを通じて、フェアプレーの精神を叩き込まれ、それを通じて健全な精神を養うことを求められるのだが、なにせ無分別な少年のことであるから、牧師の思いはなかなか届かない。

一体この牧師は、少年の頃にキャグニーとつるんで悪事を働いていたのであるが、キャグニーのほうが鑑別所送りになってその後本物の悪党に成長していったのに対して、どういうわけか心を入れ替えて牧師になったということになっている。今はギャングになったキャグニーと牧師になった男が、少年時代のままの友情を持ち続けるというのがこの映画のミソなのだが、そういうことはありうるとしても、牧師がギャングの心を入れ替えさせて、まともな人間的感情を植えつけてやるというのは、ちょっと出来すぎの感を否めないだろう。

というわけで、この映画は、ギャング映画としてはかなりゆるいところがある。ギャングをフィーチャーした教訓映画になってしまっている。

ひところ大人気を誇ったハンフリー・ボガートが、悪徳弁護士役で出てくる。少しもいいところがなくて、最後にはキャグニーに射殺される役回りだ。





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