安部公房「砂の女」

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「砂の女」は、安部公房の最初の本格的長編小説だ。「壁」や「デンドロカカリア」などの短編小説で、カフカ風の不条理文学を手がけてきた安部が、この小説では「世界の不条理性」を前面に押し出して、本格的な不条理文学を追求した、というふうに語られるのが普通だが、ただ不条理だけを売り物にしたのでは、なぜあんなに大きな旋風を巻き起こしたのか、すっきりと説明できないところもある。この小説が発表されたのは1963年のことで、日本社会はいわゆる「戦後」から脱却しかかっていたが、戦争体験はまだ多くの人の心に生き残っていたし、戦後の混乱の記憶も消えてはいなかった。戦争から戦後にかけての日本人は、ある意味カフカ的な不条理性よりさらにひどい不条理性に直面していたといってよく、そうした不条理への記憶が多くのすぐれた文学を生み出した原動力にもなった。戦後の日本文学というのは、その前後の時代と比較して、きわめて旺盛な活力を誇ったといってよいが、そうした文学的活力は、戦中から戦後にかけての日本社会を覆っていた不条理性に根ざしていた、という面もあった。安部のこの小説は、そうした時代の空気を色濃く反映していたことで、ある種の時代批判になっていたわけで、それが同時代の日本人に支持されたのではないか。

以上言ったことは、この小説の構造からある程度裏付けられる。この小説の基本プロットは、昆虫採集を趣味とするある男が、砂丘に昆虫を採集しに行った際に、突然砂丘の中にある穴のなかに閉じ込められてしまうというものだが、理由もなくいきなり穴のなかに閉じ込められてしまうというのは、いかにもカフカ風の不条理であるといえるとともに、実は男が閉じ込められた空間は、同時代の日本社会の隠喩のようなものだと考えれば、これは痛烈な同時代批判だと読むこともできる。穴の中に閉じ込められた男は、最初のうちはなんとか脱出しようとしてもがくが、だんだんと自分の境遇と妥協するようになり、最後にはどうもそこを自分の運命の場所として受け入れるようになる、というのがこの小説の基本プロットなのだが、これは同時代の日本をこの小説の中の砂丘の穴とそれを取り巻く村社会そのものだと受け取れば、痛烈な同時代批判として読めるわけである。

つまりこの小説の中では、砂丘の中の穴とされている空間は、同時代の日本社会の隠喩なのであり、穴の閉塞感は同時代の日本の閉塞感を表している。男はその閉塞感に耐えられず、自由を求めてあがきまわるのだが、そこが自分の生きている世界そのものである限りは、そこから脱出するわけにはいかない。どこかで折り合いをつけなければならないわけだ。実際この小説は、男が穴の中の生活と折り合いをつけることで、精神のバランスをとるということで終わっているのである。

このようにとらえてみると、小説の中の主人公の男と砂の女と呼ばれる女との関係がすっきりと見えてくる。男は外部から砂丘の中に紛れ込んできたエトランゼであり、女は砂丘の世界の住人として、その世界のモラルを内面化している。男はエトランゼとして砂の世界を外部からの視線で見つめ、そして不服申し立てを行うのに対して、女のほうは男の批判する社会のモラルを内面化したものとして、男と対面する。小説であるから、その対面は政治的というよりは、モラルな雰囲気を呈する。モラルと言って悪ければ、文学的と言ってもよい。つまり、のらりくらりとしつつ、女が男の批判を跳ね返すかと思えば、その批判を肯定したりもするが、自分自身は砂丘の中の無力な住人としてふるまう、そこが文学的であるわけだ。砂丘の世界を本当に動かしているものは、穴の外側にいる人達だが、その人達は男をこの世界に引きずりこんだ後は、正面からは姿を見せず、隠れたところで世界のなりゆきをコントロールしている。男との関係で実際に行動するのはあくまで砂の女と呼ばれる女なのである。

この女は、蟻地獄のような砂の穴の底に棲んでおり、たえず穴を埋めようとする砂の圧力と戦っている。穴が砂で埋められてしまわないように、つねに砂をかき出しているのだ。それは男の目には徒労に映るのだが、そうしなければ穴が埋まってしまうかぎり、穴に棲んでいるものにとっては死活的な問題なわけだ。それを徒労と受け取るか、死活的な重要事と受け取るかは、この穴にどのような形でコミットしているかによる。男のようにエトランゼの立場からは、それは徒労に映る。というのも、男にはその穴にこだわる必然性はないからだ。ところが、女にとっては、その穴こそが自分にとっての唯一の生きる場所であり、生きていく限りにおいては、それを守らねばならぬ。どんな労働も、生きることのためには意義のある行為なのだ。

この穴というのは、外見上は、砂丘の中に点々と穿たれたように見えるのだが、実際には、平地の上に立っていた家に、砂が周囲から覆い重なってきた結果穴のようになったものだ。家に押し寄せる砂を、家の周りだけ局部的に排出する。その結果家の周りだけに空間ができ、その外側は砂の壁になってしまったわけだ。これは文学的な想像力の遊びであって、物語の本筋とはあまりかかわりがないのだが、小説を面白くする工夫としては意味がある。砂との戦いを描くことで、一人一人弱い存在である人間が、自分の生きている世界の矛盾と戦うことのすさまじさを隠喩的に強調できるわけだ。

意味の曖昧なところがあるのは、小説にとって不可欠の部分で、そういう部分が小説に色気をもたらすのだが、この小説の中でそうした部分の最たるものは、男が穴の中から遁れるために、自分の智恵を動員するところだ。そうした智恵には荒唐無稽なところもあるのだが、そういう荒唐無稽さというものは、小説の欠点となるどころか、小説に色を添える効果を持つ。この小説には、脱出に失敗した男が村共同体の連中に向かって、なんとかして逃がして欲しいと懇願する場面がある。その場面で村共同体の連中が、みなの見ている前で女とあれ(=セックス)をするところを見せたら逃してやろうといわれる。その言葉を真に受けた男は、女に協力を求めるのだが、女のほうが頑として受け入れない。男にはそのわけがわからない。その辺の機微がこの小説に独特の色合いを添えている。女はなぜ男の希望を受け入れてやらなかったのか、それ自体が読者の想像力を刺激するものとなっている。

小説というものの魅力は、それがどの程度読者の想像力をかきたてることができるか、そのことにかかっているともいえる。それはともかく、安部はこの小説の中でセックスを露骨には描いていない。たとえば男根のことをいうのに、指だなどと表現している。読者の想像力を宛てにした表現だろうが、小説としては面白くない。その辺は時代の制約が働いているのかもしれぬ。






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