陸奥宗光と星亨:服部之総「明治の政治家たち」

| コメント(0)
服部が陸奥宗光を明治を代表する政治家の一人に数えたのは、陸奥自身の業績によるというよりも、原敬及び星亨という、日本の政党政治の礎を築いた人物とのつながりに注目したからであるらしい。陸奥自身の業績については、服部は、官僚としては有能だったが、政治家としては無能だったというようなことを言っている。というのも彼は、明治十一年に内乱罪で有罪判決を受けて入獄しているほど、政治音痴だったからだ。ぬかりのない政治家ならそんな目にはあわなかった、と言いたいようである。原が陸奥と初めてあったのは、陸奥が宮城監獄に入っていた明治十四年のことであった。ここで二人は意気投合したらしく、陸奥が出獄して官界に復帰するや、原は陸奥の贔屓で官界入りしている。

服部は、陸奥の業績のうちで地租制度を重視している。地租制度は、明治政府の財政基盤を作ったものだが、その性格からして封建的課税の延長だった。その詳細を服部は説明していないが、農民にとっては、それまで封建領主に納めていたものを、ほぼそっくりそのまま明治政府に納めるようになったというだけの話で、しかも従来よりも負担が重くなったという代物だった。この地租課税を強固な地盤とすることによって、明治政府の財政基盤は磐石なものとなったわけであるから、明治政府にとって陸奥は恩人と言ってよかった。その恩人である陸奥を、藩閥の小役人たちは監獄にぶち込んでしまったわけだが、一人伊藤博文だけは陸奥の功績を重んじて目をかけてやった。陸奥が出獄後速やかに官界に復帰できたのは、伊藤の後押しによるものだったらしい。

陸奥が維新の重要人物に伍すことができたのは、坂本竜馬と友に行動したことに根がある。陸奥は坂本と一緒に勝海舟の海軍操練所に入り、その後も坂本とともに行動した。その縁で、土佐の人脈と深いつながりを持つようになった。これが陸奥の政治的な資産となり、もともと明治藩閥とは直接のつながりを持たないにかかわらず、藩閥勢力に伍して影響力を持てたわけである。その陸奥が、坂本竜馬が暗殺された前後に撮影した写真が残っている。その写真の中の陸奥は、ちゃんばら映画の中に出てくる鞍馬天狗のようないでたちをしている。この写真を見ると、陸奥は大男のように見えるが、実際には子どもと見間違えられるほどの小男だったらしい。勝海舟も成年の陸奥を十五六の小僧と思ったほどだ。

陸奥はもともと紀州藩の上級武士の子であり、武士としての強い矜持をもっていた。その点では、南部藩の家老の子である原敬と相通ずるものがあったと思われる。それに対して星亨はまったく名もない庶民の出であった。服部は星のことを「明治の指導的政治家中ただ一人の、生粋の都市プロレタリアート出身者だった」と言っている。星の実の父親は築地で左官をやっていたが、倒産していづくともなく夜逃げをし、三人の子どもを抱えた母親は、暮らしに窮して娘二人を他人にやり、星ひとりを連れて浦賀の貧乏医者に再嫁した。星は横浜に出て苦学し、英米人から直接英語を学んだ。この英語の力が彼に出世の糸口を与えたのである。

慶応二年に十九歳で幕府海軍所英語教師となり、翌年には和歌山兵学寮英語教師として和歌山に赴任した。そこで兵庫県知事をやめて和歌山に藩政改革のため帰って来た陸奥宗光の幕僚となり、以後陸奥と行動をともにするようになる。陸奥が神奈川県知事になると(明治五年)、星は神奈川県二等訳官となり、陸奥が外務大臣になると星は陸奥の縁で大蔵省お雇いの翻訳仕事に従事した。横浜でつちかった英語の力が役に立ったのである。

その後、これも陸奥の手配でロンドンの法学院に留学し、バリスター(弁護士)の称号を得た。そして帰国するや自治的代言人組合を組織し、自ら副会長に納まった。代言人としての星の仕事は、主として外人関係の大訴訟であった。この仕事で星は巨万の富を築いた。自分ひとりの実力で築いた富で、日本の政党政治の礎を築いたのが星亨という男の真骨頂といえる。そんな星を服部は、「往年の紀州の陸奥の異色ある幕僚は、いまは日本の国民的ブルジョワジーの押しも圧されぬ大代言人となっていた」と評している。先には生粋の都市プロレタリアートの出身と言っておきながら、いまでは大ブルジョワジーの代言人となったと言うわけだが、プロレタリアートから大ブルジョワジーの代言人への変貌がどのようなプロセスを経て成就したかについては、多言を費やさない。ともあれ、後に政治家となった星は、一貫して政党政治の定着に価値をおくようになるが、それは藩閥の利害を重んじる元老政治から、大ブルジョワジーの利害を重んじる政党政治へと、日本の政治の機軸を変えたいとする情熱に由来するのだろう。もっとも、大ブルジョワジーの利害を真に代表していたのは星の政友会ではなく、憲政党だとする評価の方が、いまでは主流のようではあるが。

板垣の自由党から伊藤の政友会の成立にいたるまで星が果たした役割について、服部はこの本のなかで折に触れて言及している。それを読むと、星は自分自身ひな壇に上がりたがる性分ではなく、黒子として背後から操ることに専念したということが浮かび上がってくる。そんな星の特徴を一言で言うと、権謀術数家ということになろう。原敬も名代の権謀家であったが、自分自身ひな壇に上がったりもした。星の場合には、自分自身はひな壇にあがることなく、終始黒子に徹して、背後から権力を行使した、という印象が強い。





コメントする

アーカイブ