上西門院:西行を読む

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待賢門院は七人の子に恵まれた。そのうちの二人は天皇になっている(崇徳と後白河)。女子は二人生んでいるが、その下のほうの子が上西門院である。上西門院は、弟である後白河天皇の准母となるなど、政治的な影響力が大きかったほか、自分の手許に母親待賢門院の女房たちを引き取り、華麗な文芸的なサロンを築いてもいた。当代一の才女でもあったわけだ。

上西門院はまた、類稀な美貌を備えていた。おそらく母親待賢門院の美しさを受け継いだのであろう。そんな上西門院に西行が特別の行為を寄せたのは無理もない。一つには、彼女を通じて最愛の人待賢門院の俤をみることができたこと、もうひとつには上西門院その人の人柄に引かれたということもあったろう。ちなみに上西門院は西行より八歳若かった。

上西門院の院号を賜ったのは保元四年(1159)のことで、それ以前には清和院の斎院と称していた。幼い頃には加茂の斎院であった。

清和院の斎院に西行が招かれて作ったと思われる歌が、山家集に二首載っている。まず、
  春風の花を散らすと見る夢は覚めても胸のさはぐなりけり(山139)
これには、「夢中落花と云事を、清和院の斎院にて人々よみけるに」という詞書がついている。要するに題詠だったわけだが、この歌には題詠というにとどまらぬ独特の余韻がある。夢のなかで花が散るさまを見たが、そのさまが心に焼き付いて、覚めたあとでも胸が騒ぐのを覚える、と歌っているこの歌は、桜の散るさまに人の死を思い重ねているのかもしれない。あるいは、桜の散るさまに、この世のはかなさを見ているのかもしれない。何時ごろの歌かはっきりとはわからぬが、待賢門院の死後である可能性は高い(待賢門院の死は上西門院が二十歳のときのこと、まだ清和院の斎院といったときのことだ)。そうだとすれば、夢の中で散った桜とは、待賢門院の死をシンボライズしていると考えられないでもない。美しいあなたを見ていると、母上の待賢門院の俤を見るようです、そんな思いを西行はこの歌に込めたのではないか、そうも考えられるのである。

また、次の歌、
  おのづから花なき年の春もあらば何につけてか日をくらすべき(山92)
これには、「春は花を友と云事を、清和院の斎院にて人々よみけるに」という詞書がついている。前の歌と同じときのものか、あるいは違うときのものか。よくわからぬが、歌の気分には、共通するものが認められる。前の歌は花の散るさまを歌っているが、この歌は花が散ったあとのことを歌っている。花が散ってしまったあとは味気ないと歌うこの歌は、花の散ったことを愛する人が死んだことに喩えているのではないか。そうだとすると、その愛する人は待賢門院をさすのであろう。その待賢門院が死んでしまった後の世の中は味気ないものです。そういうのも、あなたの美しい姿を見ていると、おのづから母上様の美しさを思い出すからです。そんな気持を西行はこの歌に込めているのではないか。

上西門院を称するのは三十四歳のことであるが、そのときの西行は四十二歳だった。その年からいくばくもなくして、上西門院が女房たちを伴って法勝寺に花見に行ったと聞いた西行が、次のような歌を女房の一人兵衛の局に送った。
「上西門院の女房、法勝寺の花見侍りけるに、雨のふりてくれにけりばかへられにけり。又の日、兵衛のつぼねのもとへ、花のみゆき思出させ給へらんとおぼえて、かくなん申さまほしかりしとてつかはしける
  見る人に花も昔を思ひいでて恋しかるべし雨にしをるる(山101)
「花のみゆき」とは、昔待賢門院が鳥羽上皇らとともに法勝寺に花見にいったことを指している。これは大変華やかな花見だったと評判であったが、こたび上西門院が同じ法勝寺に花見に出かけたと聞いて、このことを思い出しました、と西行は歌っているわけであろう。花も上西門院の姿を見て昔を思い出し、感にたえず雨に萎れたのでしょう、と花の気持になって待賢門院母子の華やかさをたたえているようである。

西行のこの歌に、兵衛の局は次の歌で応えた、
  古をしのぶる雨と誰か見ん花もその代の友しなければ(山102)
西行が、昔の花見のことに触れているのに対して、兵衛の局は、あなたのように昔のことを知っている人がいなければ、この雨が昔を偲んで降っているとは、誰も思わないでしょうと、西行の心遣いに感心しているのである。なお、兵衛の局は、待賢門院と上西門院の母子二代にわたって女房として仕えた。西行よりはずっと年上だったはずだ。






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