村上春樹「騎士団長殺し」を読む

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村上春樹には、ほぼ七年おきに大作を書く性向があると見えて、今回も「1Q84」から七年を経て長編小説「騎士団長殺し」を発表した。上下二巻であわせて千ページを超える大作だ。読んでのとりあえずの印象は、これまでの彼の仕事の集約のようなものだということだ。集約といって、集大成とか総仕上げとかいわないことには、それなりの理由がある。それについては追って言及したいと思う。

まず物語の基本的な骨格というか、小説の構成あるいは構造について。大雑把に要約すると、妻から捨てられたことがきっかけになって、一人の人間としてのアイデンティティを見失った男が、一定の試練を乗り越えることで自分を取り戻すという話だ。その試練というのが、異次元空間を潜り抜けるという点で、「ねじまき鳥」や「1Q84」と共通するところがある。主人公の男は、現実の空間に開いた入口を通じて異次元空間を潜り抜け、再び現実の空間に戻ってくるのだが、そのことによって自分の中に変化が起き、そのことでアイデンティティを取り戻す。そして新たな現実を生きてゆくべきエネルギーを得たことを感じる、ということになっている。

この小説のユニークなところは、異次元空間での試練が、必ずしも主人公にとって本質的な動機をもっていないことだ。「ねじまき鳥」の場合には、失われた妻を捜しに異次元空間に入るということなので、一応主人公にとっては切実で彼なりに本質的な動機が伴っていた。また、「1Q84」の主人公たちがパラレルワールドとしての異次元空間に移行するのは、邪悪な勢力と対決するためだった。どちらもそれなりに、動機が明らかだったわけだ。ところがこの小説の場合には、主人公の男が異次元空間に入ってゆくのは、自分の意思ではなく、イデアとしての騎士団長の示唆によるもので、その示唆も、もし君(小説ではこの騎士団長は二人称を諸君と言うのだが)が秋川まりえという少女を取り戻したいのなら異次元空間に行かねばならない、というもので、しかもそこに入るにあたっては、騎士団長である自分を殺しなさいと命じられるのだ。主人公としては、その少女を取り戻すことは当面の責任のように受け取れなくはないが、彼女との間に本質的な関係があるわけではない。彼女を取り戻したことで、自分がどうなるというものではない。彼にとっては、それよりも自分を捨てた妻との関係のほうが重要なはずだ。だが彼は妻ではなく、少女との関係に促されて異次元空間に入ってゆくことになる。それ故、そこから現実空間に舞い戻っても、そのことがストレートに自分自身の変容につながるわけではない。その辺が、この小説を読んでいてもどかしさを感じる所以となる。いったいこの男は何のために、またどんな展望があるからといって、わざわざ異次元空間に入っていったのか、腑に落ちない部分が大きいのだ。

異次元空間そのものにしても、先行する作品と比べて、迫力に欠けるのは否めない。一応さまざまな異形の者たちが出てきはする。それらの異形の者はみな、主人公にとって馴染みの深いものたちといってよい。騎士団長殺しの絵の中から飛び出してきたと思われる像、失意の旅で出会った不思議な男のイメージ、そして少女時代に死んだ自分の妹のイメージなどだ。興味深いのは、これら異形の者たちが、基本的には悪意を持たないということだ。そういう点を含めて、この小説には邪悪なものが出て来ない。「ねじまき鳥」にしても「1Q84」にしても邪悪なものが大きな意義を持っていたことに比べれば、この小説に邪悪なものが出て来ないというのは、村上としては大きな変化あるいは転換ではないか。

主人公が自分を取り戻すというテーマは、捨てられた妻と縒りを戻すということで実現される。妻は外に男を作って夫を捨てたのだが、そしておそらくその男の子どもを身ごもったのだが、何故かその男とは結婚せずに、捨てた夫と縒りを戻すことを選ぶ。夫たる主人公もそれを受け入れる。その際に妻の身ごもった子が、現実にはありえないことなのだが、もしかしたら自分が夢の中で行った妻との性交の結果できた子なのではないかと思ったりする。その辺は、夢の中で現実の殺人(父親殺し)が行われる「海辺のカフカ」と共通している。村上には強い霊媒信仰があるらしく、人間の意志が遠くの現実に働きかけるという話が好きだ。恐らくユングの影響なのだろう。ユングもテレパシーが現実に作用するということを強く主張していたし、またそれを実体験したとも言っていた。村上自身もテレパシーを実体験したのか、それは明瞭に語っていないようだが、すくなくとも小説の世界では、それを前提に話を進めているわけだ。

こういう話はSFの一類型と考えることも出来るが、そういう話をする人たちはたいていそれを、自分たちの想像の産物として割り切っている。だが中にはユングのように割り切るだけでなく信じるものもいるわけで、村上がそのどちらかなのかは、よくわからない。いずれにしても彼には人を食ったところがある。

この小説の中で最も重要な役割をあてがわれているのは、免色という男だ。この男との会話が、この小説の大きな、そして重要な部分を占める。騎士団長や秋川まりえも重要な役割をあてがわれているが、免色ほど頻繁には登場しない。免色は常に登場して主人公との間に妙味深い会話を繰り返すのだ。騎士団長のイデアをこの世に呼び込んだのも、主人公と免色との合作の結果だった。だがそのわりには、免色は小説の決定的な部分では影が薄くなるし、最後のほうでは消えていなくなってしまうのだ。主人公が異次元空間での試練に直面するのは秋川マリエという少女を取り戻すためだったが、そのマリエが行方不明になってしまったのは、実は自分の意思で免色の屋敷に忍び込んだためだったということになっている。そのマリエを免色が迫害するというのなら、彼女を救う話には迫真性が伴うが、実はそうではなく、免色はマリエが自分の屋敷に忍び込んだことを全く知らないのである。だから彼は迫害者ではないし、ましてや邪悪な存在でもない。マリエが行方不明になったと知って、一番それを心配したのは実は免色その人なのだ。というのも、マリエはもしかしたら自分の子であるかもしれない、と思っているからだ。だから免色はマリエの保護者ではありえても、迫害者ではありえない。そういう人物から主人公は、それと知らずではあるが、マリエを取り戻そうとして、自分なりに試練を受けていたのである。その辺もこの小説がいまひとつしまりにかける印象をもたらしているところだ。

その免色との会話がこの小説の大部分を占めるのだが、その会話の部分はそれなりに読ませるところが多い。これまでの村上の文章とは違って、会話とともにゆったりと時間が流れてゆくといった感じだ。ところが小説の最後近くになると、このゆったりとした感じが消えて、一気に説明調になってしまう。文章が説明調に陥りやすくなるのは村上の欠点といってよく、それは「1Q84」あたりから目に付くようになっていたが、この小説の最後近くではそれが一段と強まった印象だ。この部分がマリエの回想という体裁をとっており、回想というものが説明調になりがちなのを考慮に入れても、ちょっとくどすぎるといった感じがする。

ところで小説の題名となった騎士団長のアイデアを、村上はモーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」から得たという。「ドン・ジョヴァンニ」はスペインの伝説に出てくる女たらしで、生涯に夥しい数の女を誘惑しては捨てた。そのジョン・ジョヴァンニが騎士団長と決闘して彼を殺すという話をモーツァルトは歌劇に仕立てたのだが、その歌劇をテーマとして、それを日本画でイメージ化した画家がいたということに小説ではなっている。この小説はやはり画家である主人公が、その絵とかかわるうちに、絵の中から飛び出してきたイメージにふりまわされ、最後には絵の中のキャラクターである騎士団長を殺して上で、異次元空間に迷い込んで行くプロセスを描いているわけである。そんなわけだから、この小説には絵画についての村上なりの薀蓄が多く含まれている。それを読むと村上が絵画に深い造詣をもっていることが伝わってくる。実際に絵画に造詣が深かったのか、それともこの小説を執筆する為に絵画について勉強したのか、どちらかはわからぬが、絵の趣味を持つ人にとっては、読書に二重の醍醐味を感じさせてくれる作品だ。音楽の話題が多いのは、それまでの村上作品と変わらない。

最後に一つ気になることがある。小説の最初の導入部分で出てくる化け物のようなものの扱い方だ。この化け物は、小説の半ばで出てくるある中年男の亡霊で、主人公はそれと異次元空間でも出会うのだが、その際にマリエの持っていた(そして今は主人公が持っている)お守りを三途の川の渡し賃として要求し、後日自分の絵を描くのと引き換えに返してやると約束する。その約束に従って、小説の冒頭の部分で絵描きである主人公の前に現われたわけなのだが、主人公はどうしても描けなかった。そこで亡霊は一旦退くわけだが、どういうわけか二度と現れることがない。つまり約束が履行されないまま、小説が終わってしまうのだ。これはもしかしたら、この小説が未完であることを暗示しているのかもしれない。そう筆者などは思ってしまう。






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