命なりけり(二度目の陸奥への旅):西行を読む

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文治二年(1186)、西行は伊勢を出て、二度目の陸奥への旅をした。旅の目的は、治承四年に平氏が奈良の諸寺を焼き討ちしたときに焼かれた東大寺の再建のために、砂金の勧進をすることだった。東大寺の重源上人が伊勢神宮へ参拝に赴いたとき、奥州平泉の藤原氏と縁のある西行に、砂金の勧請を依頼したのであった。これに西行は応えた。その時西行はすでに六十九歳になっていた。当時としては大変な高齢である。無事にたどりつけるかどうかもわからない。西行にとっては大きな決断だったと思われる。

その決断の重さを感じさせるような歌が、「西行法師家集」に載っている。
「伊勢にて、菩提山上人対月述懐し侍りしに
  めぐり逢はで雲のよそにはなりぬとも月に馴行くむつび忘るな(家108)
菩提山上人とは、伊勢神宮寺の住持良仁のこと。その人に向かって、ふたたびめぐり合うことがないかもしれないと呼びかける。そこには旅の厳しさについての西行の観念のようなものが込められているようだ。

西行は、陸奥への旅を、最初のときと同じ経路をたどったようだ。東海道を進んで、遠州の中山にさしかかったとき、西行は一首の歌を詠んだ、
「東の方へ、相知りたりける人のもとへ罷りけるに、佐夜の中山見し事の昔になりたりけるに、思ひ出でられて
  年たけて又越ゆべきと思ひきや命なりけり佐夜の中山(家113)
西行の数ある歌の中でも「願はくは」の歌と並んで最も名高いものだ。西行の絶唱と言ってよい。絶唱というのは、西行はこの歌に、自分の命のいとおしさを詠みこんでいるからだ。命をいとおしく思う気持ちが、命を永らえたことへの賛嘆の感情をわき起こしている。その感情は、決して激しいものではないかもしれないが、命へのこだわりという点では、確固とした信念を感じさせる。本来命に対して超然としていなければならない僧としての西行が、このように命へのこだわりを隠さない。西行の人間としての陰影の深さを感じさせられる歌である。

西行がこのような気持になったのは、四十年前に一度ここを通り過ぎた過去があるからである。その折の西行はまだ二十代の若さで、全身に力が漲っていたことだろう。だからこの山も一気に越えただろうと思う。ところが七十歳近くなって、老いさらばえた体でこの山を再び越えてゆく。そこに西行は「命なりけり」という感情のわきあがってくるのを感じたのだろう。「命なりけり」とは、命あってこそまたこの山を越えることができたのだという感慨と、年をとって再びこの山を越えることがあろうとは思わなかったという驚きの感情とを、ないまぜにした感情をあらわしているのではないか。

詞書にある「相知りたりける人」とは、藤原秀衡をさす。この旅の目的はこの秀衡から砂金の寄進を受けることだった。その目的を達するまでは、自分の命をつながねばならない。そういう気持もこの歌には含まれているのだろう。

この旅の途中で詠んだ歌は外にもある。富士を詠んだ次の歌
  風になびく富士の煙の空に消えてゆくへも知らぬわが思ひかな(家85)
この歌は、新古今集の詞書に「東の方へ修行し侍りけるに富士の山をよめる」とあるところから、若い頃の陸奥への修行の旅の途中で詠んだものとの解釈が有力で、筆者も一様その立場に立っているが、歌の内容には、老年のわびしさのようなものも感じられ、晩年のものと考えても不思議ではない。







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ではなく、重源上人ではないでしょうか。

 年たけて又越ゆべきと思ひきや命なりけり佐夜の中山(家113)

<老いさらばえた体でこの山を再び越えてゆく>、老西行にとって、辛い、とてもしんどいと言外ににじみでているのだが、「命なりけり」のことばから何者かに突き動かされて(多分大日如来のはからい)、山を超える自分を「命」と表現して、西行自身の驚きを詠っているのではないだろうか。

 風になびく富士の煙の空に消えてゆくへも知らぬわが思ひかな(家85)

私はこの旅の時に詠じた歌と思いたい。煩悩の煙は「虚空」に消え、西行悟りの瞬間「空」に縫着した歌だと思っているのだが・・・
 2017/5/4 服部


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