海舟座談を読む

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「海舟座談」は、巌本善治が晩年の勝海舟から聞書きした話を一冊にまとめたものに、海舟生前にかかわりのあった人物からの回想談を加えたものである。巌本は、教育者兼ジャーナリストで、どういういきさつから海舟と昵懇になったかよくわからぬが、晩年の海舟はこの男に気を許し、自分の生涯について色々語って聞かせた。海舟が死んだのは明治三十二年の一月十四日のことだが、そのわずか五日前の一月九日にも、海舟は巌本に会って、話を聞かせている。巌本が海舟から話を聞きたがったのは、その頃修史事業が活発になって、明治維新にかかわる資料の発掘が盛んになっていたことと、明治維新における海舟の行動に感心が集まっていたことを反映しているようだ。巌本とは別に、吉本譲が海舟の語録なるものを編集して「氷川清話」を出版したということもあった。

巌本がはじめて海舟と会ったのは明治二十年のことで、それ以来会うたびに聞いた話をメモしておいたが、残念なことに明治二十八年にそれらを火災で焼失してしまった。そんなわけで、巌本が利用できたのは明治二十九年以降のものしかないと断りながら、その明治二十九年以降の聞書きを、時間を追ってではなく、死直前の新しいものから古いものへ遡りながら披露している。なぜそんなやり方を取ったか、いまひとつ釈然としないが、語られる内容はみな過去のことばかりなので、これでも一向差し支えはない。

巌本は、海舟に私淑していたようで、海舟が語りたいように語らせている。すると当然自慢話に傾くわけだ。海舟が人に自慢が出来、また人も認めてくれるものは、何と言っても維新前後の働きぶりなので、話はいきおいその方面に集中する。海舟の自覚にあるのは、自分は徳川の家臣としてではなく、一個の日本人として国を憂えたということであり、そのために自分の命を惜しまずに働いたという矜持だ。この座談の中で、海舟は自分を、強い力の持ち主ながら、その力を弄ばずに、決して人を殺さぬよう、謙虚にふるまったということを繰り返し強調している。俺は腕力にすぐれていたが、腕力ではなく知力を用いて世の中を渡ってきたのだと言いたい訳であろう。

海舟は、幕府方の代表選手として超有名人だったので、よく命をねらわれた。坂本龍馬を知ったのも、龍馬が自分の命をねらいにきたためだった。その龍馬は、知られているように巨躯の持ち主で、一方海舟のほうは小男だった。坂本は巨躯であるばかりか、剣道の腕前も天下一だった。その坂本を前にして海舟は臆するどころか、相手を呑んでしまった。そこでさすがの坂本も手を上げて、以来海舟の膝下に仕えたというのである。

肥後の川上彦斎は、人を切るのが好きで、佐久間象山はじめ大勢の人間を殺したが、そんな川上に海舟は嫌悪感を覚えた。海舟は、自分が人を殺すよりも、自分が人に殺されるほうがましだと思っていた、と座談のなかで言っている。要するに、いつでも死ねる覚悟ができていなければ、大きな仕事は出来ないと言いたい訳だろう。

海舟が維新史に果たした役割のうち最も大きな意義をもつのは、薩長とわたりあいながら、日本の近代化に向かって、幕府方の代表として舵をとったということ、咸臨丸に乗ってアメリカに行ったこと、そして西郷と談判して江戸城を無血開城し、無益な戦いを避けたということだろう。本人もそれらのことを自覚していて、彼の自慢話の大半は、それらに関したものである。

一方、維新以降の海舟は、うわべでは歴史の表舞台から姿を消したような観を呈しており、自分でもそのように装っていたことが伝わってくるが、実際には、旧幕府勢力の親玉として、明治政府から一目置かれていた。その理由は、海舟には反政府勢力を糾合するだけの力があると思われていたことにあるようだ。海舟自身、人を使う才能があって、維新前から様々な人材を、イザと言うときにすぐ使えるように養っていたが、維新後も色々な人の面倒を見ており、それらの人材を自分の目的達成のために使うだけの才覚は持っていたようだ。海舟はひとからよく頼まれごとを引き受けたが、その解決には自分自身があたるのではなく、それに相応しい人材を使ったのである。だから、海舟の周囲には、つねに大勢の食客のような連中がまとわりついていた。海舟は、常に金の算段をしておったといわれ、そのことで金にうるさいといった噂もたてられたが、その実は、大勢の食客を養うのに、多額の金が必要だったということらしい。

海舟は、金の算段のついでに、自分の財産に気をくばることも忘れなかった。いまでいう財テクに励んでいたわけだ。そのことを、この座談の中でもさらけだして語っている。海舟はちょっとした金が出来ると、それで政府の公債を買っていたというのだ。その公債の利子を、松方正義が七部から五分に下げたときに、海舟は強く反発した。これは日本の近代史における金利生活者階級の本音を語った部分として興味深い。金利生活者階級は、必然的に政府を支持するようになる。維新以降の海舟が、反政府派に乗らないで、陰に日に薩長藩閥政府を支持していたらしいことは、金利生活者階級としての必然的な反応だったといえなくもない。

薩長のうちでは薩摩のほうに、海舟はより親しみを感じていたようだ。西郷とは早くから仲良くしていたし、その縁で他の連中からも一目置かれていた。それについては、命をかけてことにあたるという海舟の姿勢が、薩摩の連中を感服させたということらしい。少なくとも海舟自身はそのような言い方をしている。一方、長州人には警戒された。彼が親しく付き合ったのは伊藤博文くらいなものだ。海舟が伊藤を好きになった理由は、伊藤の飾らない性格だったようだ。海舟は伊藤の女狂いをよく知っていて、それが伊藤の欠点だといっているが、それにもかかわらず、伊藤を高く評価している。だから伊藤が、華族の女房に手を出してとんだ恥をかいたことも、大目に見ている。

海舟は維新後も徳川に義理を尽くした。慶喜の機嫌を伺うばかりでなく、幕臣で窮乏したものたちの面倒もよく見た。江戸から静岡に逃れた幕臣たちに智慧と資本を与えて、御茶作りで身を立てるようにもしてやった。海舟の徳川の家臣たちを見る目は厳しくて、あいつらは忠義を尽くすばかりで、何の能もないと言っている。その遺臣たちが、家康の像を神社に祭りたいと相談に来たときには、そんなつまらぬことにかかわるのは馬鹿げているという理由で、協力するのを断っている。海舟には、家康を神格化するような理由はいささかもなかったのだ。その家康を神格化することくらいしか、あいつらは出来ない。いかにも無能な連中だ、と海舟は思ったわけである。

海舟は無能な男たちを馬鹿にしてやまなかったが、女たちへの視線は柔らかだった。あるとき西洋人とお国自慢をしあったとき、日本が諸外国に負けないものは女だと言った。その理由が面白い。西洋の女はみな間男をするが、日本の女は決してそんなことをしないというのだ。

海舟は、自由民権運動には全く同情しなかったし、明治二十三年の憲法施行にも、時期尚早だといって反対した。その海舟なりの理由は、維新後、それを遂行した藩閥勢力が退場する頃に、藩閥政治に代る政治体制を作るのがいいということで、その時期は、早くとも明治三十年頃だというのである。同じような理由で海舟は、日清戦争にも批判的だった。日清戦争も、基本的には時期尚早の対外戦争だった。本来なら日本にはまだ、そんな体力はないはずだ。それを勝つことができたのには、色々な偶然が重なっている、と見ていたようだ。海舟の見たてによれば、国柄としては、中国は日本よりよほど大きい。そんな国を相手に、まだ小さな体力しかもたない日本が、正面から戦いを挑むのは無謀だと考えたのだろう。






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