2017年7月アーカイブ

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ムンクの作風は1907年ごろに変化した。「マラーの死」はその魁である。その絵は、暗い題材をテーマにしているにかかわらず、画面は明るく、筆致ものびのびとしている。それまでの陰鬱な画面作りからの、百八十度といってよいような転換振りである。

「戊辰物語」は、戊辰戦争の年から六十年後の戊辰の年に、東京日日新聞が戊辰戦争をはじめとした明治維新前後の出来事について、古老の回想を集めて新聞紙上に載せた記事を中核にし、それに、「五十年前」と題する、やはり古老の回想の聞き書きと、「維新前後」と題する、これは記者による記事らしいものが付属している。映画評論家の佐藤忠雄が岩波文庫版に寄せた解説によれば、この聞き書きには子母澤寛がかかわっていたらしい。子母澤は、明治維新を敗者の視点からとらえ、そうした視点から新撰組の行状を調べ、それを「新撰組始末記」という形で著したりした。従来とかく勝者である薩長藩閥の視点から見られていた明治維新を、別の視点から見たものとして、その後の明治維新観に一定の影響を及ぼしたものだ。そんな背景があるせいだろう、「戊辰物語」の本体には、新撰組への言及が多く見られるし、「明治維新前後」などは、ほとんどが新撰組についての記述である。

春といえば霞というくらい、春霞は春を象徴する事象だ。万葉集にも春霞を詠った歌は多い。中でも、巻十春雑歌冒頭を飾る七首の歌々は、いずれも霞に春の訪れを感じ取ったものとして、非常に余韻に富んだものである。これらは柿本人麻呂歌集からとったと詞書にある。次はその七首の冒頭の歌。
  ひさかたの天の香具山このゆふべ霞たなびく春たつらしも(1812)
天の香具山にはこの夕べに霞がたなびくのが見える、春がきたらしい、という趣旨の歌で、非常に伸びやかで柄の大きさを感じさせる歌である。このことから茂吉は、人麻呂本人の作かもしれないと言っている。

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是枝裕和は「誰も知らない」で、親に捨てられた子どもたちを描いた。親に捨てられた子どもを昔は捨て子と言った。これは子どもの立場に立った言い方だが、逆に親の立場に立って、親が子を捨てることを子捨てと言った。是枝が「そして父になる」で描いたのは、この子捨てである。

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お多福女郎が客の尻にお灸を据えているユーモラスな図柄のこの絵には、「痔有るを以てたつた一と火」なる賛がある。そのまま虚心に読めば、「痔があるのでたった一つの火で治療してやろう」となるが、その裏には別の意図が隠されているという。この言葉は、当時の寺子屋の教科書でよく使われた言葉、「人肥えたるが故に貴からず、智有るを以て貴し」をもじっているというのである。

カフカは生涯に三篇の長編小説を書いた。「アメリカ」はその最初のものである。1912年(29歳の時)に書き始め、その第一章にあたる「火夫」の部分を翌年の1913年に独立した短編小説として出版した。全体は八章からなるが、そのうちの第七章と第八章との間に強い断絶があり、また結末も曖昧であることから、未完成の作品と言ってよい。

大物の評判を伴って鳴り物入りでホワイトハウス入りしたスカラムッチが、さっそく物議を醸している。それを見ると、大物という感じは伝わってこない。むしろどこにでもいるチンピラを思わせる。もっともそのチンピラぶりが、彼のボスであるトランプの悪党ぶりと釣りあって見えるから、今のアメリカがいかにすさまじい状況になっているか、わかろうというものだ。

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「桟橋の少女たち」と題するこの絵は、不思議な空間感覚をもたらす。桟橋の描き方が、遠近法に基づいているように見えながら、消失点のところにある桟橋の先端が曖昧なかたちで背景の中に埋没しているために、空間がゆがんでいるような印象をもたらすのだ。家の周りの柵の描き方も、周囲との間に不調和な印象を与える。

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2013年の映画「舟を編む」は辞書編纂事業をテーマにしたものだ。原題にある「舟」とはその辞書の隠喩だ。言葉の海を渡ってゆく舟を辞書に見立てたものである。その辞書の名前が「大渡海」というのも、言葉遊びの精神の現われだろう。

ハイデガーの「存在と時間」には色々な読み方がある。この本自体が未完成な作品であり、ハイデガーが何故これを未完成のまま放棄したのか、ということがあるし、それ以上に、この本が二十世紀の思想に及ぼした影響があまりにも巨大なので、その影響が拠って来たった理由とか、影響の及んだ範囲を考えると、そこに色々なファクターを求める動きが当然でてくるし、それが読み方にも作用するということがある。また、ハイデガーがとった政治的な動き、それは誰によっても弁護のしようがないグロテスクな行為というふうに見られているわけだが、そうしたハイデガーの政治的スタンスとの関係において、この本をどのように評価すべきか、という事情もある。そんな複数の要素が働いて、ハイデガーの主著であるこの「存在と時間」という本は、一筋縄では捉えられないというわけである。

四方山話の会今月(2017年7月)のテーマは、先日一部の会員が行った海外旅行の報告だ。その海外旅行というのは、七谷子を団長とするドイツ旅行と、石子が個人的に行った地中海クルーズ。この二つの旅行について、それぞれ代表者に報告してもらおうというわけである。

日本は野鳥の豊かな国で、山に野に水辺に、季節ごとに様々な鳥の姿を見、その声を聞くことができる。特に渡り鳥は、それぞれに季節を感じさせるので、季節に敏感な日本人は、好んで渡り鳥を詠ってきた。そのことは万葉人も同じだ。というより季節に敏感な万葉人の感性を、我々現代に生きる人間も受け継いでいるということだろう。

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李相日の映画「悪人」は、なんともやりきれない思いにさせられる作品だ。金持ちの男に捨てられた女がプライドを傷つけられ、自分を慕う貧乏な男に八つ当たりした挙句、メチャクチャな脅迫をする、そこで自分の身に危険を感じた貧乏な男は、とっさに女を殺してしまう。それはその男にとっては、外に選択の余地のない強いられた行為だった。それでも人を殺すという行為は、社会的に許されるものではない。人を殺した人間は悪人として、社会から指弾されねばならない。

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お多福は現代ではおかめとして、ひょっとこと対でイメージされることが多い。白隠は布袋と並べてお多福を描いた。それも布袋がお多福を生み出したという形のものが多い。この絵もその一枚で、布袋が吐いた煙からお多福が生まれたということになっている。

林望は、2012年1月に朝日新聞の北京特派員として赴任し、以後四年半中国を見続けてきた。その間に林が見た中国とは、習近平が権力基盤を固め、彼の強力な指導の下で、中国が国力を高めてきた時期にあたる。そうした中国を林は、「習近平の中国」と呼ぶわけだ。

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「生命のダンス」と題するこの絵は、「生命のフリーズ」の最後を飾る大作である。題名から生命を謳歌するように思え、また一見してそういう印象が伝わってこないでもないが、「生命のフリーズ」のほかの作品同様に、かなり屈折した思いがこの絵にも込められているようだ。

勝海舟若い頃の学問修行にかかわる逸話といえば、オランダ語の辞書を買う金がないので、他人から借りた辞書をまるごと書き写したというのが有名だ。しかし本人は、蘭学を含めて、学問を体系的に学んだことはないと言っている。「おれは、一体文字が大嫌ひだ。詩でも、発句でも、みなでたらめだ。何一つ修行したことはない。学問とて何もしない」(氷川清話、以下同じ)と言うのである。勝海舟は、一応オランダ語を話せたようだから、これは謙遜かもしれない。

春は植物が芽吹き、生命の更新を感じさせる季節だ。現代人の我々も、春になれば心の騒ぐのを感じるものだが、万葉人もまた同様だったようだ。春の訪れに生命の息吹を感じ、生きている喜びを詠った歌が多く収められている。とりわけ萌え出づる植物に、恋心の高まりを重ね合わせている次の歌などは、万葉人の純真な心を感じさせてほほえましい。
  冬こもり春の大野を焼く人は焼き足らねかも我が心焼く(1336)

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若松孝二の2013年の映画「千年の愉楽」は、中上健次の同名の小説を映画化したものである。この小説は、紀州の新宮にある路地と呼ばれる部落を舞台に、そこで生まれて死んだ六人の若者を、オリュウノオバという産婆の目を通じて、オムニバス風に描いたものだ。映画はその若者たちのうち、半蔵、三好、達男の三人を取り上げている。半蔵は原作の冒頭で出てくるキャラクターであり、三好はその次に、また達男は最後に出てくる。その達男に振り当てられている映画の中の時間はわずか十五分ほどだが、オリュウノオバが臨終の床で回想するという映画全体の枠組みは、原作のこの達男の部分から借りたものだ。

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(拙宅のミニトマト)

ホテルにて荷物を受け取り、タクシーを雇ひてフランクフルト空港に至る。浦子運転手にチップをはずみたるところ、運転手感激せる様子にて日本語もていはく、ウレシー、と。ヨーロッパ諸国にては、頃日カード決済の普及に伴ひ、チップをやりとりする慣習次第に衰へをる由なり。タクシーの運転手と飲食店のギャルソンは、チップもて生活すとまでいはれしが、今日はその慣習の崩壊期にあたれるなれば、彼らの生活も甚大なる脅威に直面せるが如くなり。されど余はその詳細をつぶさに知ることなし。

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すたすた坊主というのは、主に街道筋に出没し、芸をしながら物乞いをする乞食坊主のことで、徳川時代の中頃に沢山存在したようである。白隠は、そのすたすた坊主に布袋を重ね合わせた。布袋がすたすた坊主となって、人々に功徳を施すところを描いたわけである。

カフカのすべての短編小説に動物が登場するわけではないにせよ、彼の短編小説は本質的には動物を描くものだ、とドルーズとガタリは言う。カフカの文学には、とりわけ短編小説の形式で語られる物語には、出口を見出し、逃走の線を描くという目的があるが、動物はそうした目的を描くには非常に適したモチーフだと言うのだ。マイナー文学の語り手としてのカフカには、ゲーテなどの大文字の(メジャーな)文学とは異なり、自分自身と自分が生きるこの世界との間に、親密な関係を持つことが出来ない。彼はこの世界に安住できる場所を持たないので、常にそこから逃走したいという衝動に駆られる。動物はそうした逃走への衝動にとって出口になれる唯一の回路というわけである。だからカフカが長編小説を書くようになるのは、動物の物語を通じては出口を見出せないと感じたときなのだとドルーズらは言いたいようである。カフカの長編小説は、終わりのない旅のようなものなのであり、したがってそこにはどこにも出口を見出すことができない。

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(ライン川下りの観光船)

六月廿七日(火)陰、時に細雨あり。この日は独逸旅行最終日なり。ライン下りを楽しんで後帰国せんとて、七時過ぎにホテルに荷物を預けて出発す。この荷物はホテル側が直接管理することなし。預託者の自己責任を前提にして、預託者自ら地下の倉庫に保管するなり。その手続をなして後、バーンホフ構内にてアスマンスハウザー行きの切符を買ひ、七時五十三分発のローカル列車に乗り込む。構内売店にて買ひ求めしサンドイッチを食ひつつ窓外の光景を眺むるに、列車は少時にして田園地帯に入りぬ。

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「赤いアメリカ蔦の家」と題したこの絵も、ムンクとトゥラのとの不安定な関係を描いたのだと思われる。赤いアメリカ蔦の家は、ムンクとトゥラの愛の巣のはずなのだが、ムンクはそこから逃げ出そうとしているのだ。

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キャタピラーは、日本語でいうと「芋虫」のことだ。手足がなく胴体だけのズングリムックリした形。人間の目には気味悪くうつるが、人間も手足をもがれると同じように見える。この映画は、そんな手足をもがれた男と、その男の世話を押し付けられた妻の話である。男が手足を失ったのは、先の大戦中、中国戦線で負傷したためだ。戦線で重症を負うと、命取りになるのが普通だが、この男の場合には生き延びた。それは日本軍が中国戦線では比較的余裕があったからだろう。南方で手足を失うような重症を負っていたならば、生きて日本に戻れる見込みはなかったと思われる。

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(中部ドイツの田園地帯)

列車はカッセル十四時三十七分発のチューリッヒ行なり。車窓より田園地帯の様子を見るに、麦畑と喬木の森こもごも相半ばす。喬木には幹の曲がれるもの多し。和辻哲郎の風土論には、ドイツの森林の樹木は、一様に真直ぐ天を向くとあり。その理由は、ドイツの森には強風の吹くことなきが故とありしが、ここ中部ドイツの森には、強風の吹きつけることあるにや、樹木は一様に真直ぐ天を向くことあらざるが如くなり。

木田元の「わたしの哲学入門」は、生涯をハイデガーを読むことにささげたという木田が、そのハイデガーの視点から西洋哲学の歴史をたどったものだ。なぜそんなことが可能かといえば、ハイデガーには、西洋哲学の歴史を解体しようとする強い意志があって、それを実現するためには、西洋哲学史についての、一貫した見方を持たねばならない。その見方は、西洋哲学をトータルに展望するものとなるはずなので、それを腑分けしていけば、おのずから西洋哲学史について俯瞰することになるわけである。

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(カッセルのトラム)

六月廿六日(月)陰、時に雨。七時起床。窓より駅前広場を見下ろすに、早くもトラムの運行始まれるやうなり。この町は、さして広大にはあらざれど、隅々までトラム通じ、住民はいづこに行くにもこれに乗りて行くを得るが如し。さればなるべし、自家用車の数は多からざるやうに見かけたり。

柳は中国人がこよなく愛した木で、漢詩では繰り返し歌われてきた。それが日本にもたらされ、日本人も愛するようになった。日本に入ってきた柳は、しだれ柳で、そのしおたれた枝がなよなよと風に吹かれる眺めや、春先に芽を吹く可憐な姿が、日本人にも訴えたのだろうと思われる。

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2009年の映画「ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ」は、太宰治の短編小説「ヴィヨンの妻」の映画化である。筆者が原作を読んだのは半世紀も前の学生時代のことで、内容はほとんど忘れてしまったが、「人間失格」同様、太宰自身の自滅的な生き方が色濃く反映されたものだったと、おぼろげながら記憶している。今回映画でそれを見て、太宰の自滅的な生き方がかなり強調されているので、恐らく原作の雰囲気を生かしているのだろうと感じた次第だ。

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(カッセル、シュターツ・テアーターの舞台)

この日のナイトライフは歌劇「エレクトラ」の観劇なり。午後五時にホテルを出で、トラムに乗りてケーニッヒスプラッツに至り、会場のシュターツ・テアーターに赴く。カッセルは人口わづか十九万の中小都市なれど、社会基盤充実し、都市交通のほかかかる文化施設まで備へをるなり。

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七福神のうちで白隠がもっとも多く描いたのは布袋だ。七福神は日本の風習だが、布袋は中国に実在した人物がモデルになっていると言われる。彼は僧侶なのだが、盛り場に出没し、おどけた行為をしては、見物人から金や物を乞うていた乞食坊主だった。ところが実は弥勒菩薩の化身だったということがわかり、庶民の信仰を集めるようになった。その伝説が日本に入ってきて、七福神の一人に数えられるようになったというわけである。

「氷川清話」は、吉本襄が明治三十一年に勝海舟の談話集と銘打って刊行したもので、吉本自ら勝から聞いた話を聞書きしたものや、勝が別途新聞雑誌等の場で行ったインタビューのようなものを集めたといわれていた。ところが敗戦後になって、江藤淳と松浦玲が本の内容に重大な疑義を呈した。この本の中には勝が言うはずのないことが書かれており、したがって偽作の疑いが強いというのが疑義の内容である。彼らは、吉本が利用したというインタビュー記事の原本にあたり、それと吉本の本とを比較することで、吉本による歪曲の実態を明らかにしたうえで、彼らなりに決定版と考えた「氷川清話」を刊行した。今日講談社学術文庫の一冊として出ているのがそれで、いまではこちらが「氷川清話」の標準版として読まれている。筆者もまたそれを読んだ。

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(埋葬文化博物館内部の霊柩馬車)

埋葬文化博物館はグリム・ヴェルトの近隣にあり。ドイツの埋葬文化について紹介・展示す。埋葬は、宗教儀式の一部として人間集団の基本的な文化現象なれば、それを通じて当該民族の深層心理を理解することを得るなり。しかして埋葬には多様の形態あり。ドイツ民族の場合には、キリスト教文化の一員として、土葬を基本にして、一部火葬も行ひをるやうなり。

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ムンクは、1898年にトゥラ・ラーシェンという女性と恋仲になった。この女性は若々しくて性的魅力に富んでいたが、性格に常軌を逸したところがあった。独占欲が強く、ムンクの近くを離れようとせず、つねに激しいセックスを求めた。すでに中年に差し掛かっていたムンクは、この女性の異常な性欲に悩まされた。そのために一時期、創作意欲を失ったほどだった。

ハイデガーの「存在と時間」が未完成なのは周知のことである。ハイデガーはこの書物の序説第二章第八節で、この著作の全体像を示しているが、それは二部からなり、それぞれの部が三篇構成になっていた。このうちハイデガーが完成させたのは、第一部の第二編まである。つまり当初構想されていた全体像の三分の一が書かれたに過ぎず、残りの三分の二は途中で放棄されたということになる。ハイデガーに生涯入れ込んだ日本の哲学研究者木田元は、この書かれなかった部分について、ハイデガーが若しそれを書いたとしたらどのように書いただろうか、それをハイデガーの意図を忖度しながら、構築しようとした。あわせて、ハイデガーが何故それを書かずに放棄してしまったのか、その原因についても見極めたい。このような問題意識に導かれながら、この本を書いたということらしい。題名が「存在と時間」の構築となっているのは、木田のこのような問題意識をずばり現しているわけである。

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(ドクメンタ会場)

六時起床、七時朝食、八時半にホテルを出づ。この日は午前中全員揃ってドクメンタ会場をざっと見歩き、午後及び明日は二手に分かれ、谷子はドクメンタの研究を、残余のものは別途観光をなさんと欲す。ドクメンタとは、五年周期に行はれをる芸術祭にて、当代ドイツの芸術動向を知るには欠かせぬ催しなる由。谷子は二十年前ほど前より、毎回必ず参集しては研究を続け来りし由なり。今回もまたじっくり研究するつもりなれど、余ら他の者にとりては或は退屈ならんと思ひ、別行動を提案せるなりといふ。

桜は日本に自生する木であるし、もともと日本人の感性に訴えるところがあったに違いない。さればこそ万葉集にも、梅ほどの数ではないが、桜を歌った歌が四十首も収められているのであろう。その桜の花は、梅が春の訪れを知らせる花とすれば、春の盛りを飾る花であった。梅花の宴の歌の中でも、桜は梅に続いて咲く花として意識されている。
  梅の花咲きて散りなば桜花継ぎて咲くべくなりにてあらずや(829)
薬師張子福子の歌。梅の花が散ってしまったら、そのあと引き続いて桜の花が咲くのでしょうな、と歌っている。目の前には梅の花が散る光景が広がっているのだろう。桜はまだ咲いていないが、梅が散れば桜が咲くのもそう遠いことではない。桜が咲けば、それこそ春の盛りだ、とうきうきしたような気分を感じさせる歌である。

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2009年の映画「ディア・ドクター」は、偽医者の無資格診療をテーマにした作品だ。偽医者というのは、日本の医療現場ではほとんど有り得ないと思うのだが、特殊な条件下では成り立ってしまうらしい。特に、僻地のようないわゆる無医村とか医療過疎地と呼ばれるところでは、どんな医者でも国家資格がありさえすれば、喜んで受け入れられる傾向が強いので、偽医者が資格を偽ってまともな医師の顔をしていることもありえないことではない。実際、そんな事件が起きて、世間を騒がしたことがあったのを、筆者は記憶している。この映画は、そうした記憶を思い出させるものだ。

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(クーアヘッセンテルメ正面)

昼餉をすませばすでに午後四時過なり。些かの疲労感と激論の余韻のために、谷ら三子はこれ以上歩き回る元気を失ひたるが如く、これよりホテルに戻りてしばし休息せんといふことに決す。すなはちトラムに乗りて駅前に至り、ホテルにてチェックインをなし、各々用意されたる個室に収まる。六時に外出せんと約し、それぞれ思ひ思ひに過ごせしところ、余は下着などの汚れ物を洗濯す。また一日の日記を整理す。

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「鼠大黒」と呼ばれるこの絵は、七福神とよく似た図柄だ。船は省かれていてないが、その他の部分には共通するところが多い。中央には、鏡餅を前にして大黒天が座禅を組み、その周りに七福神のほかのメンバーが音曲を楽しみ、ネズミたちが宴の準備をする。これは新年を祝う宴なのだろう。

カフカが生前発表したのは、「変身」のほかいくつかの短編小説だった。それら短編小説の日本語訳は、岩波文庫から、「カフカ短編集(池内紀編訳)」と「カフカ寓話集(同訳)」という形で二冊になって出ている。そのうち「カフカ短編集」について、ここでは取り上げたい。

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(カッセル市街)

六月廿四日(土)午前六時に起床す。窓外細雨煙の如し。昨日の日記を整理し、七時過ぎより朝食。卓上谷子に昨日訪問したる施設Motteの名の由来を問ふ。谷子答へて曰く、モッテとは本来蛾の一種をさして言へり。それが結核の意味に転移し、更に体制を腐食する不届き者をさしていふようになりたり。その所以を言ふに、蛾の幼虫の葉を食ひ散らかすこと、結核菌が肺の細胞を浸潤し、また不届き者が体制を腐食することを想起せしむるが故なりと。谷子また言ふ、かのミハエル氏はアナーキストなりと。

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ムンクの友人の一人にポーランド人スタニスラフ・プシビシェフスキがいた。彼の妻ダグニーは性的な魅力に富んだ女で、ムンクも惚れていたようだ。彼女はまた、ストリンドベルヒほか数人の男を誘惑しているという噂もあった。彼女は最後には夫の友人によって殺されてしまうのだが、それは彼女の夫に対する裏切りが原因だったと推測されている。

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黒木和雄は、21世紀に入って、「美しい夏キリシマ」と「父と暮せば」を作り、戦争が普通の人々にとって持った意味を問うたが、遺作となった「紙屋悦子の青春」も、その延長上にあるものだ。この作品は、戦争末期におけるある女性の生き方を描いたものだが、その女性の生き方に過度に感情移入しているわけでもなく、また戦争を表立って批判しているわけでもない。たまたま戦争末期という時代を生きた一女性の、飾らない日常を描いたものだ。もっともその日常は、彼女にとってはいささか重すぎるものであったが。

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(ハンブルグ・シュターツ・オーパー)

この日のナイトライフはシュターツ・オーパーにて歌劇の観劇なり。七時にホテルを出で、歩いて駅の反対側に及び、昨夜入りしリストランテのある通りを歩くこと数分にして劇場あり。劇の始まるまでの間、ロビーにてビールを飲む。ドイツ人は、観劇の合間にビールを飲み会話を楽しむもの多し。余らもその風習に倣へるなり。

木田元の「ハイデガー拾い読み」は、ハイデガーの膨大な量の講義録から、興味深いところをかいつまんで紹介しようというものだ。木田によれば、ハイデガーの講義録は、大学の講義での話し言葉をそのまま文章にしたものなので、まわりくどく冗長なところがある一方、かんでふくめるような言い方をしていて、凝縮された言葉を使っている論文とは違って、非常に分かりやすい。しかも、哲学史にかかる重要な概念や問題について、本筋からそれたところでそれとなく(肩肘凝らずに)論じている。そういうものの中に木田は、非常に裨益させられるところがあるし、また西洋哲学について深く感じさせられるところもある、と言う。そんなわけでハイデガーの講義録は木田にとって、この上もなく面白い読み物だと言うのである。

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(ハンブルグ市役所<ラートハウス>)

食後歩みてバウムヴァルに至り、そこより地下鉄に乗りラートハウス駅に至り、ハンブルグ市役所(ラートハウス)を訪問す。ゴチック風の壮大なる建物なり。この壮大さはハンブルグの富を象徴しをるが如し。ハンブルグは中世以来ハンザ同盟都市として栄え、巨万の富を蓄積す。今日においてもその富を背景にして、国法上ラント(州)と同格のステータスを誇るなり。

梢に高く咲く花のうちで万葉の人々がもっとも愛したのは梅だったようだ。というのも、万葉集には梅を歌った歌が百二十首も載せられており、これは花を歌った歌としては萩についで多い。桜を歌った歌は四十首ばかりだから、それと比べても、いかに梅が愛されていたか推測される。何故万葉の人がかくも梅を愛したか。民俗史的な関心を引くところだが、考えられるのは、梅が春の訪れを真っ先に知らせる花だということ、そして梅の花から漂い来る香が、万葉の人々に訴えたのだろうということだ。日本人は古代から、香に敏感な民族だ。

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李相日の2006年の映画「フラガール」は、常磐ハワイアンセンターのダンシングチーム結成にまつわる話を映画化したものである。常磐ハワイアンセンターというのは、1960年代半ばにできたアミューズメントセンターで、そこのアトラクションの切札として、フラダンスなど南洋風のダンスが人気をとった。この映画は、そのダンシングチームがどのようにして出来上がったか、その過程を人情味いっぱいに描いたものである。

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(ハンブルグ港)

六月廿三日(金)六時起床。窓外細雨煙の如し。昨日の日記を整理して後七時半、食堂にて朝餉をなす。レセプション脇の小さな食堂にて、ドイツパンと生ハム、ゆで卵とヨーグルトを供さる。入口の扉脇には新聞各紙を置きたれど、いづれもドイツ語紙にて、英字紙はなし。

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「七福神合同船」と呼ばれるこの絵は、一艘の船に集合した七福神を描く。その船は「寿」という文字をあしらった文字絵で表現されている。文字絵は白隠の特技の一つだ。この絵の場合には、「寿」という文字を分解して、マストの部分と船体の部分とを、それぞれ心憎く表現している。

福沢諭吉と勝海舟の出会いは、万延元年(1860)のことだった。この年の咸臨丸での太平洋航海を、二人はともに体験した。海舟は教授方頭取(実質的な船長)という役職であり、福沢諭吉は軍艦奉行木村芥舟の従者(家来)という身分であった。そんなこともあるのか、海舟のほうは福沢にあまり敬意を払っている様子がなく、一方福沢の方は、例の「痩せ我慢の説」で海舟を厳しく糾弾したことに見られるように、海舟に対して敵愾心のようなものを持っていた。その影には、身分格差ということのほかに、人間的な反目があったのかもしれない。

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(ハンブルグの投宿先ホテル・ベルモーア)

ハウプトバーンホフよりイーツェーエー(都市間高速鉄道)に乗りハンブルグに行かんとす。列車に乗り込むに、運行せず。しかもアナウンスなし。何事が出来せるや判然とせざるまま座席に座りをるに、暫時小出しにアナウンスあり。谷子が言ふには、どうやら事故のために出発を見合しをるやうなり。事故はハノーファーにて起きたるやうなれど、如何なる事故か説明なし。しかれば乗客らもそのうち運転すべしと思ひてか、そのまま待機せり。

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「不安」と題するこの絵は、「叫び」と並んでムンクの代表作である。構図的にも「叫び」と良く似ている。赤い夕空を背景にして、湖にかかった橋の上を人々が歩いている。「叫び」の場合には、一人の人物に焦点が当てられていたが、この絵の場合には、群集がモチーフになっている。群集の心を捉える不安、それがこの絵のテーマだ。

ジャック・デリダの著作「精神について(De l'esprit)」は、精神についてのハイデガーの取り上げ方の変遷を主題としたものである。「存在と時間」におけるハイデガーは、精神という言葉を注意深く避けていた、やむを得ず使わねばならないケースでは、引用符付きで用いていた。ところが1933年の有名な総長演説では、この引用符がはずされ、精神という言葉が堂々と使われるようになった。この言葉は、1935年の「形而上学入門」の中で一層磨きをかけられ、ドイツの民族性との強いかかわりにおいて論じられるようになる。そして総長演説から20年後に至って、ハイデガーは精神という言葉の多義性を深く反省しつつ、その本来的な意味について明らかにする。それはドイツ語でなければ言い表せないようなものであって、ドイツ語の優位とドイツ人の優越を物語るものである。つまりドイツ人こそが世界でもっとも精神的な民族なのである、とハイデガーは誇り高く宣言するに至った。大雑把にいうとそうデリダは捉えているようである。

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(イーストサイド・ギャラリーの壁画)

六月廿二日(木)半陰半晴。六時前に起床してシャワーを浴び洗髪をなして後、昨日の日記を整理す。その後リヴィングルームにて、昨日までの朝食の残り物やら、谷子が昨日買い求めし果物を食ふ。しかして室内の清掃を行ひ、八時過アパルトメントを辞す。室料の清算は後日カードを以てなすべしとなん。

万葉集巻八の冒頭は、春の雑歌として「志貴皇子の懽びの歌」として次の歌を載せている。
  石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも(1418)
志貴皇子については、このサイトの別の部分で言及したので詳しくはふれない。天智天皇の皇子で、天武系の血脈がとだえたあと、志貴皇子の子つまり天智天皇の孫(光仁天皇)が即位し、それ以降天智系が皇統を継ぐようになった。

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「父と暮せば」は、井上ひさしが二人芝居として書いたもので、1994年以降何度も舞台上映され、そのたびに大きな話題になった。それを黒木和雄が2004年に映画化した。細部で相違はあるが、舞台をそのままスクリーンに移したような出来栄えで、やはり大きな評判を呼んだ。原爆投下三年後の広島の被爆者を描いた作品で、テーマとしては歴史を感じさせるのだが、そこに描かれた人間の生き方が、今日の日本人にも大いに通じるものがあるので、共感を呼んだということなのだろう。

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(ベルリンフィル演奏会場)

谷子に知人との面談の様子を聞くに、時間の余裕あらざれば十分とはいへざれど、そこそこ目的を達せりといふ。面談の趣旨はドイツの社会教育の現状たりし由。さても研究熱心なことなり。彼の学究ここに極まれりといふべきか。

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白隠は、観音菩薩と並んで文殊菩薩も多く描いた。白隠の描く文殊菩薩は、観音菩薩同様女人のイメージで描かれている。文殊菩薩といえば、釈迦三尊の一員として普賢菩薩と並んだ姿とか、西大寺の文殊菩薩のように眷属を引き連れた勇ましい姿で描かれることが多いが、白隠は観音菩薩同様、女人のイメージで単身の姿を描いたのである。

「ある朝、グレゴール・ザムザが気がかりな夢から目ざめたとき、自分がベッドの上で一匹の巨大な毒虫に変ってしまっていることに気づいた」(原田義人訳)。カフカの小説「変身」は、こんな衝撃的な文章で始まる。読者は一気に物語の本筋に引き入れられる。ある朝目が覚めたら、一匹の巨大な毒虫に変身していたとは、いったいどういうことなのか。人間が突然、わけもわからないまま毒虫に変身してしまう。考えただけでも恐ろしいではないか。だれもがそう思うに違いない。

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(ポツダム、サンスーシー宮殿)

六月廿一日(水)晴。昨日同様浦子の用意せる朝餉を食ふ。この日は日本より持参せしといふ即席味噌汁を添へたり。食事中何者か玄関の呼び鈴を押すものあり。谷子が応接するに、学生らしき女挨拶をなし室内に侵入す。何ごとかと思へば、自分は建築技師にて、この建物の設計図の復元作業をなしをれば、部屋の間取り等につき情報を寄せられよといふ由。谷子の解説によれば、ベルリンには戦後所有者の不明となりし建物にして老朽の進みたるものを調査し今後の利用方針を決定せんとする動きある由。さればこの調査もその一環なるべし、と。

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1890年代のなかばに、ムンクは「生命のフリーズ」と称する一連の作品を制作する。「マドンナ」と題するこの絵は、そのシリーズの中核となるものである。この絵を通じてムンクは、生命と死を二つながら表現しようとしたといわれるが、どこに生命と死を読み取るべきか、さまざまな解釈がなされてきた。

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行定勲の2004年の映画「世界の中心で、愛を叫ぶ」は、思春期の少年少女の恋愛を描いたものだ。その描き方がいわゆる少女マンガ風で、折からの少女マンガブームに乗って大ヒットした。少女マンガというものについて、筆者は余り読んだことがないのでたいそうなことは言えないのだが、愛する少年少女に焦点をあてるあまり、主人公たちが世界そのものの全体を占めるようになって、残余の部分がまったく見えなくなる、ということに特徴があるようだ。この映画もその特徴を共有していて、主人公の少年少女に焦点をあてるあまり、世界には二人のほかに誰も存在しないといったありさまを呈している。題名は「世界の中心で」とあるが、実質的には、「私たちしか存在しない世界で」といった雰囲気が伝わってくる。

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(ベルリン・コーミッシェ・オーパー劇場正面)

谷子、こたびの旅行を計画するについて、ナイトライフを重視し、夜を楽しむに芸術鑑賞を以てせんとて、歌劇やら管弦楽の催しを多く取り入れたり。今夜はその事始とて、歌劇の観劇をなさんと欲す。場所はウンターデンリンデン近隣のコーミッシェ・オーパーなる劇場、出し物は現代ドイツの作曲家アリベルト・ライマンの作品メデアなり。

本来性と非本来性の対立は、ハイデガーの根本的な概念セットの一つである。だからこそアドルノは、ハイデガー批判のキーワードとして「本来性という隠語」を持ち出したわけだ。アドルノは、ハイデガーが本来性という言葉で、自分の全体主義的・人種差別的な考えを展開していると言った。ハイデガーは、本来性を人間(現存在)の根本的なあり方と言ったが、じつは彼の考えている本来性とは、個々の人間を民族という全体的な容れ物に解消してしまう、非人間的な概念なのだと批判したわけである。

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(ベルリンの壁博物館)

イタリア料理を食ひて後、シャルロッテン・シュトラーセを南の方角へやや歩みたるところに壁博物館(マウアー・ムゼーウム)あり。いはゆるベルリンの壁に関する情報やら映像を集めをる処なり。ベルリンの壁設置されて以来撤去されるまで数十年間のドイツ史を世界史のなかに位置づけするなり。館外にはベルリンの壁の遺構あり、博物館と一体となりドイツ現代史に焦点をあてをるなり。

万葉集巻八は、春雑歌、春相聞という具合に、春夏秋冬の季節ごとに雑歌と相聞歌とに分けて配列されている。この季節ごとの分類は巻十にも採用されている。両者の違いは、巻八が作者のわかっている歌を制作年代順に並べているのに対して、巻十のほうは、作者未詳のものを、テーマ別に並べていることだ。そのテーマというのは、春雑歌の場合には、鳥を詠む、霞を詠む、という具合に季節の景物に即したものであり、春相聞歌のほうは、鳥に寄する、霞に寄する、という具合に、季節の風物にことよせて恋を詠ったものである。

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「美しい夏キリシマ」は、戦争映画のジャンルに分類される。戦争映画といっても、戦争そのものを描いているわけではなく、戦時下の庶民の生活を描いたものだ。その点では、山田洋次が21世紀に入って作った戦争批判映画や、降旗康男の「少年H」の魁となる作品だ。この映画は、2003年の公開で、戦後半世紀以上たっていたわけだが、その時間の経過が、戦争について相対的な視点を付与させている、という面が指摘できるのではないか。

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筆者の家の近くの水路で初めてカルガモの親子を見たのは、ちょうど二か月前のことだった。孵化したばかりと思われる雛が八羽、母親のそばにくっついて、必死になって生きようとしていた。そのカルガモは、いまではすっかり母親と同じ大きさになった。ものの本によればカルガモは、孵化して二か月で自立し、飛翔できるようになるというから、この子たちが独り立ちする日は近づいているのだろう。

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(ベルリンにて浦子が用意せる朝食)

六月二十日(火)晴れて溽暑甚だし。六時頃起床するに夜すでに白みたり。昨夜は十一時頃まで薄暮の如くなれば、ベルリンの夏の夜の短きを知るべし。七時頃、浦子の手づから作りし朝食をふるまはる。材料は昨夜のうちに近くのスーパーにて買ひおきしものなり。ドイツパンに生ハムと果物の組み合はせなり。牛乳を飲みつつ食せり。食後の後片付けは余と岩子これを担当す。
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蓮池観音とは、観音の異名の一つではなく、観音が蓮の池に臨んでいる様子をあらわした言葉だろう。この絵は、白隠としては珍しい横幅の画面に、岩絵の具を用いて丁寧に描かれている。

勝海舟は、薩摩とはつながりが深かった。それは海舟が長崎海軍伝習所時代に始まる。安政五年(1858)、海舟は伝習所の船で、南西諸島を視察した途次薩摩に立ち寄り、藩主斉彬に面会して、すっかり斉彬の人柄に感服した。その折に、西郷隆盛は斉彬に仕えており、海舟は隆盛とも親しくなった。それが縁で、海舟は薩摩とは結構うちくだけた関係を持つようになったようだ。

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(ベルリンの宿泊先アパルトメント前にて)

平成廿九年六月十九日(月)晴。七時半に家を出で、新鎌ヶ谷北総線経由にて成田空港に赴き、九時近く第二ターミナル駅三階ロビーにて七谷、浦、岩の諸子と会ふ。ロビー内の銀行にて両替をなすに、一ユーロ約百二十八円のレートなり。チェックインしてコーヒーをすすりつつサンドイッチを食ひ、十一時近く飛行機内の座席につく。飛行機はフィンランド航空AY074便十一時発ヘルシンキ行なり。十一時十四分に離陸す。離陸後ややして左手下方に富士の頂上雲を突いて露出するを見る。その後、新潟上空にて日本海に出で、ヴラヂヴォストーク東方にてロシア大陸に入り、シベリア上空を飛び続けたり。十二時五十分頃及び十九時頃食事の提供あり。ビールと白ワインを飲みつつ食ふ。また成田にて買ひ求めし日本酒を飲みたり。

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「思春期と題したこの絵を、ムンクは1895年に公開したが、たちまち厳しい批判にさらされた。批判はスキャンダルに発展し、ムンクはノルウェーの批評界から、集中攻撃を浴びせられた。少女の裸体を描くというのは、当時のノルウェーでは、恥ずべき猥褻な行為であり、頽廃の極みだったのだ。後にムンクの作品は、ナチスによって「頽廃芸術」の烙印を押されたが、その主な理由がこの作品にあった。

ジョージ・スタイナーは、オーストリア系のユダヤ人であり、アメリカに帰化し、英語を用いて英米系の人達に向かって、主として文芸批評的なことがらについて、語りかけた人である。その人が二十世紀最大の哲学者といわれるハイデガーについて、哲学を専門的に勉強したこともないのに、あえて書いた。そのことについてスタイナーは、言訳みたいなことを書いている。自分がハイデガーに魅かれたのは、主として言語についての関心からであったとともに、(一人のユダヤ人として)ハイデガーのナチスへのかかわりについて考えてみたかったからだ、というようなことである。

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(ベルリン、アレクサンダープラッツのマルクス・エンゲルス像前にて)

昨年の正月に四方山話の会に加わった際、会のメンバーのうち石、浦、岩、七谷の諸子が二週間かけて中欧の諸都市を歩いたという話を聞いた。彼らがその旅行をしていた丁度その時、小生は親しい男と二人でイタリアの街を歩いていたのだった。そこで、俺たちがイタリアの陽気な街を歩いている時に、君たちは中欧の陰気な街々を歩いていたわけだと冷やかしたところ、いやそんなことはない、なかなか面白かったし、色々な知識を得られたという点で有意義でもあったと反論された。そこで、互いに旅行の手柄話をしあっているうちに、イタリア組と中欧組とが合同して、ひとつドイツにでも旅しようじゃないか、ということになった。その結果、今回こうしてドイツに旅行することになったわけだ。

芭蕉と西行

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西行が出家後初めての陸奥への旅について、能因法師を強く意識していたように、それから五百年後に芭蕉が行った陸奥への旅について、芭蕉が西行を強く意識していたことはよく言われることである。芭蕉がこの旅をした元禄二年(1689)が、西行の五百年忌にあたっていたことからも、そのことは伺える。もっとも、「奥の細道」の中には、直接西行に言及した記事は殆ど無い。西行と同じ道を芭蕉も又たどったことから、芭蕉が西行を強く意識していたことを推測するのみである。ただ一つ、西行の歌を引用した箇所がある。それは加賀と越前との境にある汐越の松を舟で尋ねたときのことで、その歌は
  終夜嵐に波をはこばせて月をたれたる汐越の松
という歌だが、これは芭蕉の間違いで、西行ではなく蓮如の作だと言う。

GO:行定勲

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行定勲の映画「GO」は、在日コリアンをテーマにしたものである。この映画は21世紀の始めの年に上演されたのだが、世紀の変わり目が何らかの意味を持つと感じさせたものだ。20世紀の日本映画は、在日コリアンを正面から取り上げた作品を生み出さなかった(少なくともメジャーなものとしては)。ところがこの映画では、在日コリアンの生き方が正面から胸をはって描かれている。在日コリアンだって日本人と変らぬ人間なのだ、ということをこの映画は訴えているのだが、そういう映画を、日本人である行定勲が監督し、山崎勉や大竹しのぶら日本人の俳優が演じた。主演の男女カップルも日本人である。

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蛤蜊観音は、中国の俗説から生まれたもので、仏教の経典にあるわけではない。その俗説というのは、唐の文宗皇帝がハマグリを食おうとして、蓋が開かないので、香を焚いて祈祷したところ、蓋があいて中から観音様が現れたというものだ。

「反劇的人間」は、アメリカ人のドナルド・キーンと日本人である安部公房の対話だから、どうしてもお互いの民族性が、だいたい無意識的にではあるが、背後で働くという具合になる。ところで安部公房ほど、日本人でありながら日本らしさに拘らない作家はいない。彼の小説や演劇は、無国籍と言ってもよい、いわばコスモポリタンな世界を描いている。そのことをキーンのほうも感じ取っていて、安部はなぜ日本らしさに拘らないのか、素朴な疑問を呈している。それに対する安部の答えが面白い。戦時中に満州で経験したことが、日本人に対する自分の見方に大きな作用を及ぼし、それ以来日本を斜めに見る癖がついたと言うのである。

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