父と暮せば:黒木和雄

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「父と暮せば」は、井上ひさしが二人芝居として書いたもので、1994年以降何度も舞台上映され、そのたびに大きな話題になった。それを黒木和雄が2004年に映画化した。細部で相違はあるが、舞台をそのままスクリーンに移したような出来栄えで、やはり大きな評判を呼んだ。原爆投下三年後の広島の被爆者を描いた作品で、テーマとしては歴史を感じさせるのだが、そこに描かれた人間の生き方が、今日の日本人にも大いに通じるものがあるので、共感を呼んだということなのだろう。

原爆三年後の広島。映画の一シーンで杉の葉の蚊遣り線香が出てくるから夏なのだろうと思う。まだ原爆の傷跡があちこちに残っている街の一角にある家で、父と娘が一緒に暮している。実を言うと父は、原爆を浴びて死んでいるはずなのだが、忽然と娘の前に現れ一緒に暮し始めたのだ。娘はこの父親が幽霊だとわかっているが、あまりにも人間らしく、またあまりにもなつかしいので、生きていた当時と同じように、父として遇している。父親がなぜ突然幽霊となって娘の前に現れたのか。その理由は、娘が一人の若者に心を動かされ、胸を高鳴らせたことに、父親の霊が反応し、是非娘の恋を実現させたいと思って、応援するつもりで現れたというのだ。というのも、娘は自分の恋を素直に受け入れることが出来ない。何故なら原爆の惨禍から自分だけ生き残って、しかも幸せになることは出来ない。自分にはそんな資格はないと思い込んでいるからだ。そんな娘に父は、それは「うしろめとう申し訳なあ病」だといって、そんなことは気にせずに、自分の愛を貫けと励ます。父は娘の恋を成就させてやるために、彼女の背中を押しにこの世に舞い戻ってきたというわけなのだ。

娘(宮沢りえ)の心に恋が芽生えたのは、彼女が勤めている図書館にやってきた若者を見たからだ。彼は原爆の資料を集めているというのだが、図書館では占領軍を憚って原爆関係の資料は扱っていないと答える。それでも若者は簡単にあきらめない。原爆被害の実態を明らかにしたいのだという。そんな若者に娘は恋をしてしまうのだ。その恋のときめきが、あの世の父にも伝わって、父をこの世に呼び出したわけである。舞台では、二人芝居ということもあって、娘と若者のやりとりは、娘の語りを通じて暗示的に明らかにされるのだが、映画ではその若者を登場させて、視覚的な形で明示的に示している。映画に出てくるのは、父と娘のほかはこの若者だけだ。

娘が自分の恋に忠実になれないのは、自分が原爆で生き残ったことに、彼女が深い罪悪感を抱いているからだ。沢山死んだ人がいる中で、自分だけが生き残ったのは、死んだ人達に申し訳ない、と思っている。また、もし結婚して子どもが出来たら、その子に原爆病が伝わるかもしれない。そうなれば自分は生まれてくる子どもに対しても申し訳ない。どちらにしても、自分には幸せになる資格がない、そう強く娘は思い込んでいるのである。

それに対して父(原田芳雄)は、それは「うしろめとうて申し訳なあ」病だから、思い切って病気から立ち直りなさいと励まし、また、わしは孫の生まれるのを楽しみにしておるんじゃ、と言って何とか娘を結婚させてやろうとするのである。大災害で生き残った人が、死んでいった人々にある種の罪悪感を抱くことは、先の東北大震災でも見られた現象だ。また、第二次大戦で生き残った人々にも同じような心情が広範に見られた。これらは、冷静にみれば故なき自責といえるのだが、しかし当の人々にとっては切羽詰った感情だとも言える。日本人独特の心的傾向の現われなのだろうか。

娘は父を「おとったん」と呼んでいる。そのおとったんと、初めのころは淡々と親子の会話をしているが、そのうちに娘のほうが劇的な感情に捉われる。原爆が落ちたときのことを思い出したのだ。原爆が落ちたとき、娘はたまたまお地蔵さんの影になるところにいて、ピカを直接浴びることがなかったために、生き残ることが出来た。ところが父はピカと爆風を浴びて、即死はしなかったものの、瀕死の状態になった。それなのに私は、おとったんを見捨てて、一人で逃げたんだといって、激しく自分を責めるのである。今まで娘が「申しわけなあてならん」と言っていたのは、死んでいった人々一般というより、自分の父に対してだということがここで明らかにされる。そこで、父は、被爆当時のことを思い出しながら、自分がいかに娘を許しているか、綿々と語るのだ。その語りに慰められて、娘は自責の呪縛から、いくぶんか解放されたように感じるのだ。娘は父に向かって言う、「ありがと、ありました」と。

たった二人の登場人物が、言葉を交わしあいながら進んでいくという点で、本来は演劇と言うよりも、対話劇というべきなのだが、それにもかかわらず劇的な要素に充ちていて、人の感動をそそるような作品になっている。傑作と言ってよいのではないか。それにはやはり、宮沢りえという女優の、圧倒的な存在感が大きな働きをしているのだと思う。この女優は、演劇的な、というのは派手な風貌をもちながら、内面的なものも豊かに表現できる。スケールの大きな女優といえるのではないか。






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