福沢諭吉と勝海舟

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福沢諭吉と勝海舟の出会いは、万延元年(1860)のことだった。この年の咸臨丸での太平洋航海を、二人はともに体験した。海舟は教授方頭取(実質的な船長)という役職であり、福沢諭吉は軍艦奉行木村芥舟の従者(家来)という身分であった。そんなこともあるのか、海舟のほうは福沢にあまり敬意を払っている様子がなく、一方福沢の方は、例の「痩せ我慢の説」で海舟を厳しく糾弾したことに見られるように、海舟に対して敵愾心のようなものを持っていた。その影には、身分格差ということのほかに、人間的な反目があったのかもしれない。

座談の中で海舟が福沢に触れているのはほんの少しだけだ。明治三十年七月十五日の座談で、巌本善治から、「福沢はご存知なのですか」と聞かれ、次のように答えている。「諭吉カヘ、エー、十年ほど前に来たきり、来ません。大家になって仕舞ひましたからネ。相場などをして、金をもうけることがすきで、いつでも、そう云ふことをする男さ」。こんな具合で、いたって淡白だ。福沢をまともに相手にしたくないといった気概が伝わってくる。

その福沢が「痩我慢の説」を書いて、海舟をひどく罵ったのは明治二十四年のことだ。福沢はこれをすぐには公刊しなかったが、書いたものを海舟本人に示したというから、あるいは上記で海舟が福沢に言及しているのは、そのときのことだったのかもしれない。福沢が海舟を非難したのは、海舟の変節を責めたからだった。その福沢を海舟は、まともに相手にするのが馬鹿馬鹿しいと思ったのだろう。金儲けだけの商人根性に凝り固まったケチな奴だと突き放しているようである。

咸臨丸で福沢の上司だった木村芥舟とも、海舟は仲が悪かった。海舟は木村より七つも年上だし、幕末の政局で、自分なりに国のために尽くしたという自負があるところに、その木村が、軍艦奉行として、形式上は自分より上位にいることが、海舟には我慢できなかったようだ。座談のなかでも、木村との確執について語っている。

海舟と木村とは、長崎の海軍伝習所時代から顔見知りだった。その折に、海舟は木村に意趣返しのようなことをしている。航海の稽古が短かすぎるといって木村が海舟に小言を言ったので、海舟は木村を乗せて遠洋まで航海した。すると木村は、「ここは何処だ。もう帰ってはと言ふから、どうしてどうして、ここはまだ天草から五六里です。之からズット向ふまで行くのですと言ふたら、モウヨイヨイと言って、大相へどをついたよ」と海舟は面白そうに回想している。その他にも、塾生の教育方針などをめぐって反目したことがあったようだ。

その木村のほうでは、海舟に意趣をもってはいなかったようだ。もっとも海舟の人柄には手を焼くこともあったらしい。咸臨丸の中でも、海舟は癇癪をおこして部屋に閉じこもってばかりだったが、館長のことだから相談しないわけにもいかず、相談するとどうでもしろといっておきながら、なにかやると色々反対されて、実に困った、と言っている。しかしそのことで木村が勝に意趣を抱いたということはないようだ。木村は、福沢とも分け距てなく付き合っており、人柄がよかったのだろうと思う。

木村の人柄の良さは、海舟の死後に語った次のような言葉からも伝わってくる。「先生は、小刀細工が大嫌ひで、一生そんな策略などと云ふことを仕た事がない。是れは、尤も人の及ばぬところで、それでこそ、幕末から維新にかけ、千辛万苦して、危難の場を凌ぎ通して、生命をも全ふして、終に大功をたてられたのは、全く何処までも、公明正大な一天張りとして、小刀細工されなかった故だと思はれます」

この木村が海舟より七つ年下だったことは上述のとおりだが、福沢は更に年下で、海舟より一回り下、つまり十二歳も若い。海舟にとっては、小僧みたいなものだったわけだ。だから、海舟が福沢をまともな相手と見ていないことには、それなりの理由がある。なにせ、誇り高い海舟のことだ。自分と対等に渡り合えるのは、維新を担った大人物であって、福沢のような、維新後に成りあがった書生などはまともに相手に出来ぬ。そんな気概が、上の言葉から伝わってくる。

(追記)「氷川清話」では、福沢が「痩我慢の説」を書いた時に自分のところに送ってきたと言っている。その際海舟は、福沢が自分や榎本を攻撃していることについて、「批評は人の自由、行蔵は我に存す」云々と書いて、公表されても差し支えないと答えた。





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