キャタピラー:若松孝二

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キャタピラーは、日本語でいうと「芋虫」のことだ。手足がなく胴体だけのズングリムックリした形。人間の目には気味悪くうつるが、人間も手足をもがれると同じように見える。この映画は、そんな手足をもがれた男と、その男の世話を押し付けられた妻の話である。男が手足を失ったのは、先の大戦中、中国戦線で負傷したためだ。戦線で重症を負うと、命取りになるのが普通だが、この男の場合には生き延びた。それは日本軍が中国戦線では比較的余裕があったからだろう。南方で手足を失うような重症を負っていたならば、生きて日本に戻れる見込みはなかったと思われる。

舞台は、信州を思わせる山村の一集落。そこに中国戦線で負傷して傷痍軍人となった男が凱旋する。四肢をすべて失い、芋虫のような有様になったうえに、耳も咽喉も破壊されて聞くこともしゃべることも出来ない。完璧な廃人だ。それを妻一人で背負うことになる。男の親族は係わり合いになるのを避け、重荷を嫁におしつけられることを喜ぶ。妻は絶望するが、村の人々から、お前の夫は軍神なのだから、大事にしなければいかん、それもお国のためなのだからとといわれ、いやいやながら夫の世話をするはめになる。

男は、人の声が聞こえないし、自分からもしゃべれない。ただ男根だけは健在で、やたらとやりたがる。そんな夫の性欲に妻はこたえてやる。仰向けになった夫の上に馬乗りに跨り、勃起した夫の男根を自分の股の奥に導いてやるのだ。

食って寝て、寝て食うだけの夫の毎日を妻はやりきれない思いで見ている。家の中にひとりでおいているから、ほかになにもやることが無くて退屈し、セックスばかりしたがるのだろうと思った妻は、夫に軍服を着せてリアカーに乗せ、村の皆に見せびらかして歩く。村の皆はその姿を見て、複雑な顔つきをするが、なかには軍神様に食べさせてあげてくださいといって、食料をくれるものもいる。村中の見世物になったと感じた夫は妻に抗議しようとするが、言葉もしゃべれず手出しもできず、如何ともしようがない。そんな夫に妻は、「芋虫ごろごろ、軍神様ごろごろ、お目めはざっくりこ、ちゅうちゅうねずみはぴっかりこ」といって、おもちゃにするのである。

そのうち、夫に顕著な変化が現れる。まず男根が立たなくなった。また始終おびえたような表情をし、不自由な体をゆり動かしながら泣き叫ぶのだ。妻はそれを見て夫の自分へのあてつけだと受け取るのだが、実は中国戦線で犯した自分の罪を思い出して煩悶していたのだ。夫は中国人の女を駆り立てて強姦し、その挙句に虐殺していたのだったが、その光景を思い出すと、良心の呵責に耐えないようなのだ。そして自分がこんな不具になったのは、その罰があたったのだと思い込んでいるふうなのである。

いよいよ敗戦の日がやってくる。それはこの村の人々にとっては晴天霹靂のようなものだった。なにしろ彼らは日常ラヂオから流れてくる大本営発表を頭から信じていて、日本は勝っていると思い込んでいたのだ。妻もその一人で、大本営発表の内容を夫に話してやっては、互いに喜び合っていたのだ。ところが日本が負けたという。それは妻にとってはうれしいことのように伝わってくる。彼女は村の白痴の男と一緒に日本が負けて「万歳」と叫ぶからだ。おそらくこれで軍神の呪いから解放されると考えたのかもしれない。

ところがその軍神だった夫にとっては、日本の敗戦は自分の存在意義を否定されるようなことだったのだろう。彼は渾身の力を振り絞って家を抜け出し、近くの沼に顔から浸かって自殺してしまうのだ。

というわけでこの映画は、夫の立場になってみれば、国のために命をかけて戦い、その結果不具となりながら、自分が命をかけた国に捨てられたという無念さが伝わってくる一方、妻の立場から見れば、不具となった夫の世話を自分ひとりに押し付けられ、あたら人生を無駄にする羽目になったという無念さが伝わってくる。いずれにしても、かれらは戦争によってとてつもなくひどい目にあわされたわけだ。とはいっても、この映画は表面的には反戦的なメッセージにあふれているというわけではない。妻が夫に向かって「軍神様」と言わせるところに、戦争とか国家に対するシニカルな視点を垣間見る程度だ。

芋虫のようになった夫を大西信満が演じていたが、その迫力がすごい。一見すると本当に四肢が存在しないように見える。よほどうまいトリックを使っているのだろう。妻を演じた寺島しのぶもよい。とくに男の上にまたがって腰をふるところがなかなかエロティックだ。





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