勝海舟の自己修練術

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勝海舟若い頃の学問修行にかかわる逸話といえば、オランダ語の辞書を買う金がないので、他人から借りた辞書をまるごと書き写したというのが有名だ。しかし本人は、蘭学を含めて、学問を体系的に学んだことはないと言っている。「おれは、一体文字が大嫌ひだ。詩でも、発句でも、みなでたらめだ。何一つ修行したことはない。学問とて何もしない」(氷川清話、以下同じ)と言うのである。勝海舟は、一応オランダ語を話せたようだから、これは謙遜かもしれない。

海舟みずから、自分の若い頃の修行について語っているのは、剣術と禅道の修練だ。剣術は、十代の後半に、父親の計らいで島田虎之助という剣術師範のもとに弟子入りした。ここでは、実践的な、つまり生死をかけた剣の使い方を学んだ。この師範は、「今時みながやり居る剣術は、かたばかりだ。せっかくの事に、足下は真正の剣術をやりなさい」と常々言っては、海舟に真剣の使い方を教えたようだ。おかげで海舟は、天下一流の剣士にはならないまでも、真剣の攻撃から自分の身を守る技は身につけた。

だいたい海舟は、人を殺さないことを以て、自分の生き方としていた。自分が人を殺すよりも、人から殺されたほうがましだと思っていたらしい。それでもなかなか死ななかった。海舟は生涯に二十回も襲われて、その時の傷痕が、体中に残っていたほどだが、そのたびごとに危機を遁れて生き残った。それはおそらく、死を恐れない胆力の賜物で、その胆力を、若い頃の剣術修行が養った、と考えているようだ。

胆力を養うという点では、禅の修業も大いに役立ったようだ。これも剣術の師範島田虎之助の勧めで、向島の弘福寺というところで修行した。十九歳か二十歳のころ始めたと言っている。座禅が中心だったらしい。大勢の坊主たちと一緒に座禅をしていると、ひっきりなしに棒で背中を打たれる。浮世のことやら女のことやら、雑念が頭を過ると、それが表に現われて、師匠にばれてしまうのだ。そこで、頭の中から雑念を払う修行をした。そのうちに、雑念が一切浮かばぬようになって、師匠から打たれることもなくなった。

雑念を払う、というのは、剣術にとっても大事なことだ。真剣で立ち向かい合っているときに、心の中に雑念が過るようでは、勝負には勝てない、勝負に勝つには、頭の中から雑念を払い去り、真っ白な状態にならねばならぬ。心の中が真っ白になれば、体はごく自然に動く。怖いとか、まずいとか、余計な感情が一切湧いてこないので、虚心になって動くことが出来る。だから、禅を体得したものは、剣術においても、大いに力を発揮することができる、海舟はそう体感したようだ。その体感を海舟は次のように語っている。

「この座禅と剣術とがおれの土台となって、後年大層ためになった。瓦解の時分、万死の境を出入して、つひに一生を全うしたのは、全くこの二つの功であった。ある時分、沢山剣客やなんかにひやかされたが、いつも手取りにした。この勇気と胆力とは、畢竟この二つに養われたのだ。危難に際会して逃れられぬ場合と見たら、まづ身命を捨ててかかった。しかし不思議にも一度も死ななかった。ここに精神の一大作用が存在するのだ」

剣と禅との結びつきを強調したものとして、鈴木大拙がある。大拙の場合には、禅が死への恐怖心を取り去ってくれることに、注目している。死への恐怖心があるとどうしても、剣の使い方に躊躇が出る。躊躇なく、虚心に剣を使うためには、それなりの修行がいる。その修行法として、禅は最適だと大拙は言ったわけだが、そうした理論的な指摘を、海舟の頃の人々は、体感としてわきまえていたわけである。

こんなわけだから、海舟は剣客としてもひとかどだったと思われる。だが彼は、自分の剣の技術をおおっぴらに用いることをしなかった。上述したように、生涯に二十回も殺されかかったというが、そのたびに、積極的に剣を抜くことはなかったらしい。殺すよりも殺されるほうを選ぶ、という姿勢を貫いたわけだ。その結果、非常に危ない目にあったこともある。体中にあったという刀の傷痕がそれを物語っている。

こういうわけだから海舟は、人を殺す行為を憎んだ。幕末期には、川上彦斎とか岡田以蔵とかいった人切りがいたが、海舟は彼らが簡単に人を殺すのを面と向かって非難した。あるとき、京都の寺町で三人組に襲われたときに、同道していた岡田以蔵がそのうちの一人を切り捨てたところ、海舟は以蔵を強く批判した。すると以蔵は、自分が相手を殺さなかったら、相手が先生を殺していましたといって、不得要領の顔をしたが、それでもやはり人を殺すのはよくないことだと海舟は思った。海舟としては、自分が人を殺すよりも、人に殺されるほうがましだったのである。

海舟は、同時代人としては西郷隆盛と横井小楠を、歴史上の人物としては白隠を高く評価した。海舟が白隠を高く評価するのは、禅の先達ということもあるようだが、その人柄に共感したところも大きいようだ。海舟は白隠についてこんな逸話を紹介している。白隠の寺の門前に豆腐屋があったが、そこの娘が妊娠した。親が問い詰めると、娘はお寺の和尚さん(白隠)と何々して孕んだと答えた。親は、お上人さまの種ならとて子を生ませ、大事に育てた。ところが後になって娘が本当のことを白状した。驚いた親が白隠のもとにかけつけて事情を話すと、白隠はハアソーカと一言いっただけだった。

この逸話について海舟は、次のように感想をもらす。「ハアソーカ。なかなか大きなものだ。天下の事、すべて春風の面を払って去る如き心胸、この度胸あって初めて天下の対極に当たることができる」のだと。

ついでに言えば、海舟の色好みはなかなかのものだった。海舟が多くの妾をもっていたことはよく知られていたし、性欲のさかんなことは、同時代の色好み伊藤博文に劣らぬほどだった、といわれる。海舟の性欲が盛んになったのは、若い頃に犬に睾丸をかまれて以来だという噂をどこかで聞いたことがあるが、その噂の信頼できる出所は知らない。





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