舟を編む:石井裕也

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2013年の映画「舟を編む」は辞書編纂事業をテーマにしたものだ。原題にある「舟」とはその辞書の隠喩だ。言葉の海を渡ってゆく舟を辞書に見立てたものである。その辞書の名前が「大渡海」というのも、言葉遊びの精神の現われだろう。

21世紀の日本で、このような映画が作られたのは、時代に対する皮肉と思われる。辞書編纂事業というのは、何年にもわたる気の遠くなるような作業で、しかも従事者の間の緊密な連帯が求められる。そんな事業を、インターネットの普及で紙の情報媒体が色あせてゆく時代に、しかも格差社会の進展で人々の間の連帯が希薄になってゆくなかで行うというのは、ある種のアナクロニズムだ。そのアナクロニズムを判っていながら、あえてこのような映画を作ったわけだから、それは時代への手厳しい批判になっているのだと言える。

この映画は結構ヒットしたわけだが、そのわけとしては、これが日本人の好きな、集団による事業の成功体験を描いているということがあげられる。人々が共同して一つの事業を成功させるという物語は、ハリウッド映画を始め、世界中で好まれる傾向にあるが、日本人の場合には特に好まれるようだ。そうした成功体験をテーマにしたテレビ番組がロングヒットを記録した例からわかるように、日本人は、協力しあって事業を成功させるという話が非常に好きなのだ。この映画もそうした範疇の物語として、好意的に受け入れられたのだと思う。

成功体験と言っても、事柄が辞書の編纂事業という地味なことをめぐるものであるから、派手な物語展開のありえようわけもなく、辞書というものにのめり込むことの出来る、ある種変った人々の、自分の情熱へのこだわりについての話である。そんなわけだから、本筋にそって波乱に富んだことが起るわけでもない。毎日同じことの繰り返しなのである。にも拘らず、事業は一歩一歩確実に進んでゆくわけで、その毎日が集積して、ある一つの形に集約される。それが辞書の完成という事態として現われるわけだ。物語の帰結としては、いささかインパクトにかけるが、それに自分の人生を打ち込んだ人もいるわけで、そうした人にとっては、それなりに成功体験の充実感があるし、それを脇でみていた人も、多少は感動させられるというわけである。

本筋が地味な話なので、登場人物に色を持たせることで、話を面白くしようとしている。松田龍平演じる青年は、非社交的で自己表現の下手な人間だが、仕事に対してはこだわりを見せる。そんな彼を、同僚や先輩たちが暖かく見守る。この要素だけでも見せ場はいくつか作られるが、それに付け加えて、青年の下宿の小母さんやその孫娘が出てきて更に色を添える。宮崎あおい演じるこの娘と青年は心温まる恋をするのである。

この娘に青年が書いたラブレターは、毛筆で草書体を以て書かれ、娘には読めない代物だった。そこで娘は私をバカにしているのでなかったら、音声で言えと迫る。そこで青年は「好きです」といい、それを聞いた娘が「わたしも」と言う。男女の関係がオープンになった21世紀の日本で、こんな言葉を聞かされると、どこやらがこそばゆくなるのを感じる。

この娘は板前をやっている。女が板前をするのは、21世紀の日本でもまだ普及していない。そこで娘は、「女が板前をやるってやはり変かな」と言う。周囲にそう見られていると自覚しているから、こんな言葉が出てくるのだろう。

本筋の辞書編纂の場面と二人の恋人を中心にした人間関係と、この二つを折り合わせながら映画を作り上げているが、その折り合いがかみあわないところが結構あるのは、監督の石井がまだ30歳の若さで、経験不足のところから来ているのかも知れぬ。二人が夫婦になった以降の関係がなんだかぎごちなく感じられるし、松田と他の人間との関係にもよそよそしいところがある。松田が律儀すぎる人間として描かれているためだ。なにもここまで松田の人間像を極端なものにすることもないだろうと思われるのだが。






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