医学(Medizin):クリムト「ウィーン大学講堂天井画」より

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クリムトがオーストリア政府からの注文を受けて作成した「ウィーン大学講堂の天井画」は、クリムトという画家を理解するための鍵を与えてくれる。クリムトはこの仕事のために三点の天井画を描いたのだが、それらに自分の芸術上の信念を盛り込んでいたという意味で、非常にメッセージ性の高い仕事となった。ところが、これら三点の天井画は、いずれも大学当局や政府から激しい拒絶にあった。そこでクリムトは、その拒絶に屈することなく、これを買い戻したのであったが、それらの作品は結局失われてしまった。権力に対抗して自分の芸術的良心を貫いたクリムトだが、その良心は報いられなかったわけだ。一方クリムトと同じくこの仕事の一部を請け負ったフランツ・マッチュは、注文の趣旨にしたがった作品を作ったおかげで、いまでもウィーン大学の講堂を飾っている。もっともそれが高い評価を受けることはないのだが。

ウィーン大学は古い大学だが、1895年に講堂が建設され、その室内装飾画として、クリムトに三点の天井画の作成が依頼された。それぞれ、哲学、法学、医学をテーマとし、テーマに相応しい制作ポリシーが明示されていた。ところがクリムトはそのポリシーとは全く正反対のメッセージを盛り込んだ作品を作ったのだ。すなわち「哲学」では光ではなく闇の勝利を、「法学」では正義ではなく悪の勝利を、「医学」では健康ではなく死の勝利を、それぞれ盛り込んだのだった。注文主が怒ったのには、それなりの理由があったわけである。

この三点のうち「哲学」の下絵が、1900年のパリ万国博に出品され、高い評価を受けた。これは画面の左側に様々なポーズをとった人々の群像、右側に暗黒の中に沈みこんでゆく巨大な顔が描かれていたが、これらが制作ポリシーである光ではなく、闇を賛美するものだとして注文主の反発を招いた。以後、「法学」と「医学」もポリシー違反だとして激しい拒絶にあったわけだ。

三点の天井画がそろって完成したのは1907年のことだが、その直後にクリムトは、これらを買い戻すことを提案し、天井から撤去した。撤去されたそれぞれの作品は、一時的にコレクターの手に移ったが、紆余曲折の末、1944年に国立オーストリア美術館の所有になり、戦禍を避けるために南オーストリアのインメンドルフ城に疎開した。しかし翌年の5月に、SSによって火をかけられ、すべて消失してしまった。

今日では、それぞれの作品の白黒写真が残されているほかに、「医学」の構図下絵及び「医学」の一部分のカラー写真が残されている。上は、「医学」の構図下絵である。白黒写真で残されている完成形の画面と比べると、死者たちを思わせる群像とその手前にいる女性「ヒュギエイア」の描き方が大分異なっている。完成形では、群像が一層リアルに描かれている。(カンヴァスに油彩 72×55cm 個人蔵)

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これは、医学の神の娘ヒュギエイアを描いた部分のカラー写真。赤い衣を着て、顔を後ろにそらせたヒュギエイアの手には蛇が巻き付いている。蛇は脱皮を繰り返し、それが若返りを連想させることから、健康の象徴と見られていた。






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