ノーマ・レイ(Norma Rae ):マーティン・リット、アメリカの労働組合運動を描く

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1979年のマーティン・リットの映画「ノーマ・レイ(Norma Rae )」は、アメリカの労働組合運動を描いたものだ。アメリカの労働組合というのは、産業別に組織されていて、産業ごとの全国組織またはその下部組織が直接個々の企業の労働者を外部から組織するということになっている。日本なら、労働組合は企業ごとに組織されるから、企業の言うままになるという傾向が強い一方、企業があるところには放っておいても労働組合が出来やすいという事情がある。ところがアメリカでは、企業内部から労働組合を作ろうという動機は弱いらしく、産業別の全国組織が外部から組合の結成を働きかけなければならない。個々の産業別労働組合組織は、そうした働きかけ(オルグ)の要員をそれぞれ抱えている。この映画は、そうした要員の一人が、組合のない企業の労働者たちに働きかけて、組合を結成させようとする動きを描いたものだ。

舞台は、アメリカ南部の小さな町にある一紡績企業。800人の従業員がいる。その町の人々は何らかの形でこの企業に結びついているらしく、いわば企業城下町のような状態だ。そこで働く労働者たちには、労働組合を作って企業に自分たちの要求を突きつけようとする考えは全くない。この企業にかかわらず、アメリカ南部には労働組合に対するアレルギーが強いようだ。

そんな設定のなかで、繊維産業労働組合の全国組織から派遣されたオルガナイザーがやってくる。彼に対する町の視線は冷たい。ホテルの宿泊まで断られてしまう。労働組合からやってきた人間は、町の平穏な秩序を乱す不届き者なのだ。そこでオルガナイザーのワショウスキー(ロン・リーブマン)は、或る家に救いを求める。この映画の主人公であるノーマ・レイ(サリー・フィールド)の家だ。ノーマも彼女の両親も紡績工場で働いている。低賃金だから、働ける者はみな働かないと、生活することができないのだ。しかし、ノーマの父親は、労働組合などもってのほかだと考えている。ノーマ自身も最初はワショウスキーを胡散臭い目つきで見る。労働組合をやる人間なんて、コミュニストか悪党かユダヤ人だと思っているのだ。実際ワショウスキーはユダヤ人だった。だからノーマが彼を拒絶したかというとそうではない。どういうつもりかはわらぬが、ワショウスキーのために一肌脱ぎ、とりあえずねぐらを用意してやる。

こうして足がかりを得たワショウスキーは、工場の前に毎日出かけ、出勤してくる労働者たちにビラを配り、あるいは労働者たちを集めて組合の結成を呼びかける。そうした動きに対して、企業側はいろいろな嫌がらせをするが、アメリカには労働組合運動を保障する法律があって、あまり出鱈目もできない。すくなくとも労働組合運動を理由にした弾圧は出来ない建前だ。ワショウスキーの武器もこの建前だけで、彼はこの建前を最大限利用して、自分の活動を進めてゆくのだ。

ノーマは、当初は企業側に懐柔されて、労働組合運動にまじめに取り組もうとはしなかったが、自分の父親が労働災害のようなことで死んだり、同僚の境遇を考えるにつけても、企業側への怒りを強めて行く。人間なんといっても感情が行動を支配するものだ。企業に対する怒りの感情が強くなければ、なかなか労働組合を作って企業に対抗しようと言う気にはなれない、というものだ。

そんなわけでノーマは次第に労働組合運動に目覚めてゆく。そんな彼女に企業側からの弾圧も強まる。工場内で演説する彼女に対して、企業側は警察を導入して排除するのである。企業と対決することになったノーマが叫ぶ言葉が興味深い。私は簡単には排除されない。排除したいと思ったら、州兵でもなんでもよこすがよい、というのだ。

アメリカの州兵制度というのは、対外的な戦争が目的ではなく、州内の労働争議から企業の利益を守るために作られたという了解がある。だから、企業に対抗する私を排除したかったら、州兵を呼びなさいとノーマは言ったわけである。

結局ノーマはクビになってしまうが、企業に労働組合は作られた。それを満足そうに見届けてワショウスキーは去ってゆき、ノーマは取り残される。だが彼女には家族があった。結婚したばかりの夫と、自分自身の子が二人、夫の子が一人である。その家族を養う為にも、ノーマは落ち込んでばかりいられない。そんなメッセージを発しながら映画は終わるのである。

アメリカ映画が労働組合運動を描くのは非常にめずらしいのではないか。かつてジョン・フォードが「我が谷は緑なりき」で、炭鉱労働者たちのストライキを描いたことはあったが、それはイギリスが舞台の話だった。またチャップリンが労働組合を描いたのは、遠い昔のサイレント映画の時代だった。サイレント映画の中では、グリフィスが「イントレランス」のなかで労働争議を描いた例があるが、その映画では労働争議はならず者のやることだというようなメッセージが込められていた。要するにアメリカでは、少なくとも映画の世界では、労働運動はタブーに近い扱いを受けてきたのではないか。そういう点でこの映画は、非常に珍しいものだと言えるわけである。






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