ペーパームーン(Paper Moon):ピーター・ボクダノヴィッチ

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ピーター・ボグダノヴィッチの1973年の映画「ペーパームーン(Paper Moon)」は、詐欺師と孤児の女の子が繰り広げるロード・ムーヴィーの傑作だ。禁酒法の時代だから恐らく1920年代から30年台のアメリカが舞台。そこで聖書を売り歩くセールスマンが、孤児になった九歳の女の子の世話を押し付けられ、一緒に放浪しながら、女の子の親族が住んでいるミズーリを目指すという物語だ。

主人公のモーゼス(ライアン・オニール)は、聖書を売り歩くセールスマンだ。その売り方が振るっている。新聞の訃報欄で情報を得た死者の家を訪ね、実はその方から生前注文を受けた聖書を納品しに来ました、と言って相手をだまし、相手の混乱に乗じて高い値段で聖書を売りつけるのだ。一応相手をだましていることでは詐欺行為といえるが、だまされた相手は喜んで買うわけだし、またその品が聖書である点で、無駄な買い物ではない。アメリカ人ならどの家庭でも、聖書の一冊や二冊あっても不思議ではないのだ。

というわけでこの映画は、アメリカ人のキリスト教信仰が大きな背景となっている。舞台となった1920年代から30年代にかけてのアメリカは、信仰復興運動(リバイバル)が異常に高まった時代で、人々の宗教心もまた高まっていた。そんな時代だからこそ、信仰が商売の種にもなったわけだ。この時代を描いた作品として、前回「エルマー・ガントリー」を取り上げたが、「エルマー・ガントリー」の方が、信仰復興運動の立役者に焦点を当てていたのに対して、こちらはその信仰復興運動に乗じて一儲けしようとするケチな詐欺師に光をあてているわけだ。

詐欺師が世話を押し付けられた孤児は、詐欺師が付き合っていた女の子どもだった。その女が死んだとき、詐欺師は埋葬に居合わせた人々からアディという名の孤児(テイタム・オニール)の世話を押し付けられる。そのうえ、もしかしたらあなたの子かもしれないなどといわれる。顎の形など、顔が良く似ているというのだ。それを女の子もまともに受けて、もしかしたらこの男が自分の父親かもしれないなどと夢想する。いまでならDNA鑑定ですぐわかることだが、当時のアメリカでは精々顔の形で親子のつながりを推測するほかなかったわけだ。

ともあれこうして二人の共同生活が始まる。ボロ車で移動しながら、新聞で仕入れた情報をもとに、死んだ人間の家を訪ね歩いては、聖書を売りつける。遺族の方では、聖書を買うのも個人への供養とばかり、だいたいは買ってくれるので、商売大繁盛だ。しかもアディには不思議な才能があって、彼女と一緒にいると、相手は心を開いてくれて、簡単に聖書を買ってくれるのだ。もっともアディの活躍だけではなく、社会全体に異常に信仰心が高まっていたという時代背景もあるのだが。

二人で渡り歩く間に、色々なことが起きる。詐欺師が商売女と仲良くなって一緒に行動するようになると、アディは自分たちの生活が乱されるのを喜ばず、一計を弄して女との縁を断ち切る。また、酒の密売グループに接近し、密売者から盗んだ酒を当の密売者に売るという芸当を演じたりもする。もっともこちらのほうは、後で大変な始末になった。警察が追ってきたのだ。その警察官(保安官)というのが、その密売人の兄弟で、金を取り戻しにかかったというわけなのだ。このへんのところは、日本では考えられない。日本では、かりにも警察官が犯罪者とグルになっているなどとは、全く考えられないことだ。ところがアメリカでは、当たり前のこととして描かれている。アメリカの警察なんて、そんなものさといった、冷めた見方が伝わってくるのである。

結局詐欺師は孤児を親戚の家に連れてゆき、これでお別れだと宣言する。宣言したはいいものの、自分の心に大きな穴があいたような気持になる。一方孤児のほうも、親戚に対して親愛な気持になれない。そんなわけで孤児は親戚の家を飛び出し、詐欺師の後を追ってくる。詐欺師もそれを拒まず、再び二人して新たな未来に向かって旅立つというわけなのである。

こんなぐあいでこの映画は、時代への批判的な視線を感じさせる一方、人と人との触れ合いについても存分に味あわせてくれる。いい映画だと思う。なお、詐欺師と孤児を演じた二人(ライアン・オニールとテイタム・ニール)は、実の親子だそうだ。






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