怒り:李相日

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李相日は「悪人」において、現代日本社会の閉塞感のようなものを描いたが、この「怒り」もその延長上の作品だ。こういう映画を見せられると、現代の日本社会というのは、救いよういもないほどに壊れてしまっている、と感じさせられる。そういう意味で、非常にメッセージ性の強い作品だ。
この映画は変わった構成をとっている。三組の人間群像が出てくるのだが、それらの間には何らのつながりもない。映画の始まりのところで、陰惨な殺人現場が映し出されるが、その犯人というのが、三組の人間群像のそれぞれの中心にいる男と似ていて、まわりの人間たちもそのことを信じてしまうというところが、ただ一つの共通する要素だ。それさえ、あまり問題となるようなものではない。だからこの映画は、一本の筋で全体がまとまっているという印象はまったく感じさせず、現代の日本社会に生きている様々な人間たちの、どうしようもないほど情けない生き方が、相互に脈絡を持たないままに展開されるだけだ。

三組の人間群像とは、東京に住むゲイのカップル、千葉県らしいところの漁村でほそぼそと暮らす庶民、そして沖縄で暮している人々だ。この三組の人間群像の中心にいる男たちが、それぞれ指名手配の殺人犯に似ているということになっている。そこで、ゲイカップルの場合には、カップルの片割れが自分に迷惑が及ぶのを恐れて相手を見捨てる。漁村で一旦結ばれた男女のカップルは、女のほうが男を警察に売る。沖縄の場合には、愛する女性がアメリカ兵によって強姦される現場を目撃しながら、何もできなかったことについて罪悪感にさいなまれる。そういった内容の話である。

殺人犯に似ている男たちの行動よりも、彼らを囲む人間たちの行動に焦点が当てられている。似ている男たちは、ただの空似であって、したがって殺人事件については何の関係もないし、そのことを問題意識にのぼらせる理由もない。ところが彼を犯人に似ていると思っている人間たちはそうではない。彼らは、その男を犯人に違いないと思い込んだ挙句、その男に対して非人間的な振舞いをするのである。

ただ一人、沖縄の男の場合には、犯人に似ていることから生じる事柄ではなく、自分の愛する女性がアメリカ兵に強姦されるところを目撃しながら、なにも出来なかったことを悔やむということが大きなテーマになっている。これには沖縄の現状を象徴的に描いているということもあるのだろう。アメリカ兵による卑劣な強姦ばかりでなく、辺野古の米軍基地建設に反対する人々の姿も映し出されている。

この映画の中のゲイカップルの描き方は、画期的だったのではないか。いわゆるオカマの、掘られる喜びを描いたのは、日本ではこれが初めてではないか。

漁村の猟師の娘は、東京で売春をやっていたことで、社会からのはみ出し者として描かれている。そのはみ出し者の女が、やっと見つけた愛を失う。その理由というのが、愛する人を信じられなかったことだというから、なんとも救いのない話だ。もっともこのカップルは、最後には和解するということになっていて、その部分では救いのようなものを感じさせる。

だが全体的な印象としては、冒頭で言ったように、現代の日本社会というのはここまで壊れてしまったのかと感じさせられるほど、暗い感じの映画だ。





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