クリムトのエロス

| コメント(0)
klimt.jpg

十九世紀の末から二十世紀の初頭にかけて、ウィーンはパリと並んでヨーロッパの精神文化の中心地だった。建築、美術、絵画などの諸芸術や、フロイトの心理学、ウィトゲンシュタインに代表される哲学など、ウィーンはさまざまな学芸分野で、ヨーロッパをリードしたのであった。その時代のウィーンをベル・エポックと呼ぶこともある。この言葉は同時代のパリについて用いられるのが普通だが、ウィーンもまたパリに負けないほどの文化的なオーラを放っていたのである。

そのベル・エポックのウィーンを代表する画家がグスタフ・クリムトだ。クリムトは、1890年代から第一次大戦が終わる1918年まで、つねにウィーンの美術界をリードし続けた。ウィーンの美術界は、パリのそれほどの伝統と厚みをもたなかったが、クリムトの登場によって、世界の絵画の動きを牽引するまでに至った。

美術史上におけるクリムトの位置づけは、分離派とか表現主義とのかかわりで語られることが多い。しかし、分離派といっても、明確なコンセプトがあるわけではなく、旧来の印象的な美術に対決するという姿勢を共有するほか、特に共通したものをもっていたわけではなく、また表現主義についても、クリムトが主体的にかかわったといえるわけではない。そんなことから、クリムトの作風は、特定の美術的な分類に収まるほど単純なものではないし、またクリムト内部においても意識の変遷があり、それに従って作風も変化していったということもある。そんなわけで、クリムトは特定の流派に分類できるような芸術家ではないといってよい。

クリムトの父親は金細工師であった。クリムトは幼い頃から父親の仕事を真似ていた。それゆえ彼の絵には、視覚的な芸術と言うよりは、手触りをともなった装飾品としての性格がある。彼はまず、芸術家としてよりは、職人として出発したのである。

クリムトはウィーンの工芸学校を出た後、弟のエルンスト、画家のマッチュと共同アトリエを創立し、主に公共建築の装飾画の注文を受けることからキャリアを出発した。当初は非常にリアルな絵を描いていた。

1897年に分離派が結成されると、クリムトはその会長に納まったが、これは特定の画風を押し出した芸術運動というよりは、因習的な画壇に対抗したカウンター・カルチャーとしての性格が強かった。それでもある程度の傾向性は見られた。それは一言で言えば、アール・ヌーボー的な動きであって、絵画に装飾性を持ち込もうとする点に特徴があった。もともと絵画における装飾性に親和的であったクリムトにとっては、自分の肌にあった傾向だったといえよう。

クリムトの画風は、時代の変遷にともなって変化した。当初のリアルな画風から、黄金様式といわれる金ぴかな装飾性の強い画風、そしてオリエンタリズムを取り入れた色彩豊かな装飾画を経て、最晩年には精神的なものを感じさせるようなものへと変遷していった。といっても、クリムトはわずか55歳の生涯を生きたに過ぎず、絵画の巨匠として本格的に認められるのは30歳を過ぎてからのことだから、その芸術家としての盛りは20年あまりのことにすぎない。この短い期間に、めまぐるしく画風を変えたとも言える。そこに、クリムトの旺盛な取り組みを見ることが出来よう。

上の写真は、クリムトの晩年に撮影されたものである。クリムトは自画像というものを描かなかったが、そのかわりに写真は多く残した。それらを見ると、クリムトはずんぐりむっくりした体型で、顔つきもどちらかといえば野卑な印象だ。芸術家というよりは、農夫かあるいは職人を想起させる。






コメントする

アーカイブ