三浦佑之「風土記の世界」

| コメント(0)
風土記についての概括的な解説書がないことを嘆いていたところ、ユニークな古事記研究で知られる三浦佑之が、岩波新書という形で出してくれた。これを読むと、風土記成立の歴史的な背景とか、風土記全体を通じての特徴が、かなりの程度わかる。非常に啓発されるところが多い。これをきっかけにして、風土記の紹介が進むことを期待する。

まづ、風土記成立の歴史的背景。三浦は風土記を日本書紀との関連において考える。日本書紀は、漢書以来の中国の正史を手本にして構想された。中国の正史は、紀、志、列伝の三部構成をとっている。紀は歴史の大要、列伝は人物に焦点を当てた歴史の流れをそれぞれ描き、これに対して志は国家の空間的な拡がりについて描いたものだ。この三つの要素をまとめて、全体を書といったわけである。例えば漢書とか晋書とかいった具合に。

日本でも当初はそれにならった正史が構想された。それによれば、現存の日本書紀にあたるものは紀であり、風土記は志として位置づけられていた。ところが何らかの理由によって、列伝や志にあたるものは放棄され、紀にあたる日本書紀だけが正式に編纂された。風土記のほうは、諸国に編纂が命じられはしたが、それが正式に編纂されることはなかった。だが、非公式であるとはいえ、諸国の実勢について記したものとして、いまでも歴史的な意義を有している、とするのが三浦の見方である。

正史の構想は、律令国家の二つの柱の一つとして位置づけられた。もうひとつの柱は律令である。この二つを調えることで、律令国家としての体裁を整えたいというのが、当時の政権の思惑であった。その結果、律令のほうは養老律令として結実したが、正史のほうは、中国の正史の伝統からすれば中途半端な形に終わった。それが今日日本書紀という形で伝わったものだ。日本書紀という名は、もともと日本書・紀と記されたが、それは正史たるべき日本書の紀にあたるものという意味だった。

日本書紀の編纂が終了するのは紀元720年のことだ。風土記編纂の命令が諸国に出されるのは713年である。政権としては、紀(日本紀)と志(風土記)とが同時に完成することを当然目指していたと考えられるが、何らかの理由から、志(風土記)編纂の努力を放棄した。そのため、風土記の編纂作業は明確な目標を失い、ばらばらになった。編纂命令から日本書紀成立までの間に編纂されたものもあれば、出雲国風土記のように、命令から二十年後、日本書紀の成立から十年以上もたって成立したものもある。

以上が風土記の編纂にかかわる歴史的な背景についての三浦の見方である。これはまだ古代研究の統一見解には至っていないようだが、魅力的なものである。

今日現存する風土記は、常陸、出雲、播磨、豊後、肥前の五カ国の風土記と、それ以外の諸国のものが他の文献で言及された逸文という形で残っているものからなっている。この中で、常陸国の場合のように日本書紀成立以前に成立したものと、出雲国のように日本書紀成立以降になったものとでは、おのずからトーンが違うと三浦は見る。日本書紀成立以降に完成したものは、正史たる日本書紀の歴史観に左右されているのに対して、日本書紀成立以前に完成したもの、つまり常陸国風土記には、独自の歴史観が伺われる。その最たるものは、ヤマトタケルノミコトにかかわる記述で、常陸国風土記は、日本書紀におけるこの薄幸の皇子を、天皇として遇している、といった具合だ。

なお、日本書紀、古事記、風土記の三者間の関係については、日本書紀と風土記の間に上記のような関連が認められる一方、古事記はこの両者とはかなり離れた位置づけになると三浦は見ている。古事記が成立したのは、日本書紀より早い八世紀初頭(或は七世紀中)のことだが、これは当時の政権にとっては、正史あるいはそれに近い位置づけは与えられていなかった。だからこそ、古事記とはほぼ無関係に、正史たる日本書の編纂が構想されたのだと三浦は考えているようである。

 





コメントする

アーカイブ