カフカ「審判」を読む

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「審判」は、「変身」と似ているところがある。まず、雰囲気だ。この二つの小説は、いずれも不条理文学の代表作といわれるのだが、不条理というのは、この二つの作品の場合、重苦しい雰囲気となって現われる。この重苦しさには不気味さがともなっているのだが、この不気味さこそ、それまでの文学には見られなかったものだ。そういう点でこの二つの作品は、不気味さを基調低音とする、重苦しい不条理劇といった体裁を呈している。

次に物語構成だ。どちらも、物語の主人公がある日突然、自分の理解を超えた状況に陥るところから始まり、それをなんとかして理解し、曲面の打開を図ろうとしてもがき苦しむうちに、なんとはなしに力がつき、やがて殺されてしまう、という物語構成になっている。

「変身」の場合には、主人公のグレゴール・ザムザが、或る朝目が覚めると、自分が巨大なゴキブリに変身していることに唖然とするところから始まり、その事態にうろたえているうちに、最後には家族から投げつけられたリンゴが背中に食い込み、その部分が腐乱して死んでしまうということになっている。

また、「審判」の場合には、主人公のヨーゼフ・Kがある朝目覚めると、見知らぬ二人の男たちが自分の寝室に侵入してきて、わけがわからぬまま逮捕されてしまう。逮捕されたといっても、拘束監禁されるわけではなく、在宅のまま起訴された状態が続くのであるが、逮捕されたわけがわからぬままじたばたしているうちに、二人の死刑執行人がやってきて、いずこかへ連れ去られてしまう、その挙句にナイフで心臓をえぐられて死んでしまうのだ。

グレゴール・ザムザは背中の傷口が腐乱して苦しみながら死んでゆくのだが、そんなグレゴールに家族が同情することはないし、彼がベッドの上で死んでいるのを発見した家族は、むしろ厄介払いができたことを喜ぶ。一方ヨーゼフ・Kは、野原の片隅で死んでゆきながら、「犬のようだ」と言って、そこに恥辱を感じるのだが、その恥辱感に答えてくれるものはいない。そばにいるのは、自分の命をごく形式的に奪った二人の死刑執行人だけだ。

こんなわけで、この二つの作品は、雰囲気の点でも、物語構成の点でも似たところがあるのだが、相違したところもある。それは、簡単にいえば、物語の背景設定の違いだ。「変身」には、背景設定らしいものがないといってよい。グレゴール・ザムザはある日突然ゴキブリに変身するのだが、なぜ、どのような事情でそうなったのか。当の本人にも、この小説を読んでいる読者にも、最後まで明らかにならない。第一作者のカフカがなぜこんな設定をしたのか、それもわからない。わかるのは、小説の主人公が巨大なゴキブリに変身したことと、人間の社会に適応できずに死んでしまったということだけだ。だからこれは、人間の人間社会への不適応をテーマにしたものかといえば、そうではない。適応できなかったのはゴキブリであって、人間ではない。ゴキブリが人間社会に適応できないのは当然のことだ。だからグレゴールがゴキブリに変身した時点で、彼がやがて死ぬだろうことは織り込み済みだったといってよい。

これに対して「審判」には、背景設定らしいものが認められる。どうやらそれは、官僚社会への、カフカなりの問題意識を反映したものらしい。カフカは、自分が生きる同時代のヨーロッパ社会を、息苦しい官僚制社会として受け止め、その息苦しさを「審判」のなかで展開して見せたのではないか、そんなふうに思えないところがないわけではない。この視点に立てばこの小説は、痛烈な「同時代批判」の話だということになる。こうした見方を裏付ける要素は、小説の色々なところに見ることが出来る。

まず、冒頭のヨーゼフ・K逮捕の場面。ヨーゼフは、見知らぬ二人の男によって逮捕されるのだが、その男たちは、下級の役人らしく、自分のしていることの意味について、深く理解しているわけではない。だから、ヨーゼフのために用意された朝食を勝手に食ってしまったり、ヨーゼフの持ち物をくすねたりする。彼らは末端の役人なのだ。こんな役人たちに踏み込まれ、自分の人間としての尊厳を乱されるのは耐え難いことだ。だが、官僚制社会においては、それは日常茶飯事だ。この小説は、冒頭からして、そうした官僚制社会の不気味さを訴えているように見える。

最初の審理の場面では、法廷らしいところを舞台に、様々な人間たちが登場するが、それらの人間たちの一人として、ヨーロッパ的な意味での個人としての存在感を感じさせない。彼らは一人の生きた人間としてではなく、組織の一員として、いわば顔のない存在として現われる。この顔のない人間たちからなる社会のあり方こそ、官僚制社会の特徴である。ヨーゼフは、自分がこの官僚制組織にからめとられていることに早々と気付く。そして、審理の法廷でこう叫ぶのだ。「疑いもなく、この裁判のありとあらゆる言動の背景には、したがって私の場合でいえば逮捕と今日の審理との背後には、大きな組織があるのです」(辻瑆訳、以下同じ)

官僚制組織の特徴は、組織の維持が自己目的化し、社会の成員の人権に対する尊重が見られないことだ。だから官僚制は秘密を重視し、そのあまりに秘密が至上目的化される。一般の市民に対して秘密を守るという構えは、抑圧的で閉鎖的な組織体質を強化する。そのあげく、「一般的にいって訴訟手続は、世人に対して秘密であるばかりでなく、被告に対しても秘密なのである」といった事態が支配する。ヨーゼフはだから、自分がどのような罪で起訴されているかさえ、知らされないわけである。ただひとつ確かなのは、「裁判所は一度告訴したとなると、被告に罪があることをかたく確信しているので、この確信を取り除くことは非常にむつかしい」ということだ。それゆえヨーゼフは、かりにも無罪を勝ち取ることなど願うべきではないと、いろいろな場面で忠告されるのである。

ヨーゼフは、ある不思議な画家から、裁判についていろいろ忠告されるのだが、その画家は、裁判所と深いつながりがあって、裁判の実務にはある程度通じていた。その画家が言うに、「私はほんとうの無罪判決に出会ったためしは一度もない」というのである。あったのは、「みせかけの無罪判決とひきのばし」だというのだ。そして被告にとってもっとも望ましいのは、判決がいつまでも引き伸ばされることだと忠告される。いままであったためしがなく、これからも期待できないような無罪判決を望むよりは、いつまでも判決が出ずに、そのまま一生が過ぎてゆくほうが、現実的で望ましい判断だというわけである。

実際、いつまでも判決を引き伸ばされてきた実例を、ヨーゼフは、自分の依頼した弁護士のもとで、もう一人の依頼人である商人のうちに認めた。この商人は、起訴されてからもう五年もたつのだが、まだ口頭弁論はおろか、請願書の提出もしていないのだ。だが弁護士はそれでよいのだ、と商人に言い渡している。要するにことを急いで過酷な有罪判決をうけるより、そしてその可能性が圧倒的に高いわけだが、いつまでも判決が引き伸ばされ、そのうちに自分の寿命がつきてしまうほうが、よほどましなのだ。ところがヨーゼフには、そんなことはできない。ヨーゼフはあくまでも自分の無罪を勝ち取りたいのだ。そんなヨーゼフを弁護士は、駄々っ子を見るような目で見る。

こんな具合で、あくまでも裁判所と戦う姿勢を崩さないヨーゼフには、早めに過酷な運命が訪れる。彼は、或る聖堂を訪ねたついでに、聖堂の神父から意味ありげな話を聞かされ、要するに自分の運命を甘受せよ、と進められるのだが、その進めに従わないであいかわらず突っ張っていたところを、ある日突然死刑執行人達がやってきて、死刑の宣告を下され、そのまま刑を執行されてしまうのである。こうしてヨーゼフは、わけのわからないままにこの世から消されてしまう。今日ならこれを冤罪という人もいるかもしれぬが、この小説からは、これが冤罪だとは伝わってこない。何故なら、ヨーゼフに対する起訴理由と、判決の理由が明らかにされていないからだ。これでは冤罪もなにもあったものではない。






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