萩を詠む:万葉集を読む

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萩の花は、万葉人によって最も愛された花だ。万葉集の花の歌の中では、梅よりも多く、百四十首以上も詠まれている。古来日本人は、四季の中でも秋を最も愛したが、萩はその秋を象徴する花だ。漢字からして、秋を象徴している。万葉人にとって秋の草花と言えば萩をさしていた。だから、秋の花を集めた七草の筆頭にも置かれた。その萩を詠んだ歌は、巻八と巻十に集中している。

まづ、巻八から。故郷の豊浦の寺の尼の私房にして宴する歌三首。故郷とは古京という意味、ここでは飛鳥京をさす。豊浦の寺とは、我国最初の尼寺、私房は尼たちの起伏する部屋である。
  明日香川行き廻る岡の秋萩は今日降る雨に散りか過ぎなむ(1557)
明日香川が行きめぐっている岡に咲く秋萩の花は、今日降っている雨に散ってしまうだろうか、という趣旨。三首の初めの歌。丹比真人国人の作。

次は、沙弥尼の歌二首。
  鶉鳴く古りにし里の秋萩を思ふ人どち相見つるかも(1558)
  秋萩は盛り過ぐるをいたづらにかざしに挿さず帰りなむとや(1559)
一首目は、鶉が鳴いている故郷で咲いている萩の花を、親しい人たちと一緒に見ることができ、楽しい、という趣旨。二首目は、秋の萩は盛りが過ぎたというのに、髪に飾ることもせずに、お帰りになられるのですか、と言う趣旨。別れを惜しんでいるのだろう。沙弥尼とは、出家したばかりの若い尼、つまり女性の僧のことを言う。

次も同じく巻八から。或人尼に贈る歌とあるから、宴の席でのことかもしれない。
  手もすまに植ゑし萩にやかへりては見れども飽かず心尽さむ(1633)
手を休めずにせっせと植えた萩だからでしょうか、いくら世話をみても飽きることがありません、いとしいばかりです、という趣旨。いくら萩が美しいとはいえ、尋常でない入れ込みようである。

ついで、巻十から数首。まず、柿本人麻呂歌集の歌。
  夕されば野辺の秋萩うら若み露にぞ枯るる秋待ちかてに(2095)
夕方になったら野辺の萩が散ってしまった、まだ若いので秋を待ちきれなかったのだろうか、という趣旨。萩が蕾のうちに散ってしまったことを嘆く歌、恐らく若くて死んだ女性を念頭に置いている歌だろう。

同じく巻十から数首。
  我が衣摺れるにはあらず高松の野辺行きしかば萩の摺れるぞ(2101)
  この夕秋風吹きぬ白露に争ふ萩の明日咲かむ見む(2102)
  秋風は涼しくなりぬ馬並めていざ野に行かな萩の花見に(2103)
  秋風は疾く疾く吹き来萩の花散らまく惜しみ競ひ立たむ見む(2108)
一首目は、私の衣はわざわざ染めたのではありません、高松の野辺をゆくうちに萩の花の色に染まったのです、という趣旨。摺るは染めるという意味。二首目は、この夕べ、秋風が吹きました、この分だと白露と争うようにして萩の花も咲くことでしょう、それを見たいものです、という趣旨。三首目は、秋風が涼しくなったので、皆で馬を並べて、いざ野へ萩の花を見にいこうと呼びかけている歌。万葉の人は、萩の花見を楽しんでいたようだ。四首目は、秋風よ早く吹いておくれ、萩の花が風に散るまいとして頑張る姿を見たいから、という趣旨。多少乱暴な言い方だ。

萩は花を見るだけでなく、色づいた葉も鑑賞されたようだ。次はその一例。
  秋風の日に異に吹けば露を重み萩の下葉は色づきにけり(2204)
秋風が日ごとに吹き募るので、露が重く葉に結び、萩の下葉も色づきました、という趣旨。我々現代人には、もうこのような感性は残っていないのではないか。萩の葉が黄色くなったのを見て、それを黄葉と受け取る感性はもはや我々にはない。

大伴旅人は臨終にあたって、思い残したこととして、萩の花を見れなかったことをあげた、という伝説がある。その出所となったのは、巻三にある次の歌だ。
  かくのみにありけるものを萩の花咲きてありやと問ひし君はも(455)
人間はいつかは死ぬものと決まっているが、萩の花が咲いていたらそれを見てから死にたいとあなたはおっしゃられましたね、と言う趣旨のこの歌は、旅人の資人余明軍が主人の死をいたんで詠んだ歌とされる。旅人自身の言葉ではなく、その部下の歌を通じて、風流人だった旅人の面影をよく物語るものだ。なお、余明軍は、次のような歌も詠んでいる。
  見れど飽かずいましし君が黄葉のうつり行けば悲しくもあるか(459)
萩の花を見飽きずに眺めていらしたあなたさまが、その葉が色づくように移ろうのを見るのは、とても悲しいことです。移ろうは、死ぬという意味である。葉の色のうつろいに人間の生死のうつろいを重ねているわけであろう。






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