内村鑑三「余は如何にして基督信徒となりし乎」を読む

| コメント(0)
「余は如何にして基督信徒となりし乎」は、内村鑑三が基督教の信仰を得たいきさつを書いたものである。彼が基督教の信徒になったのは札幌農学校在学中のことで、その時はまだ十代の若者ということもあって、完璧な信仰にはいたらなかったが、二十代前半でアメリカに留学し、そこで深く思索することを通じて本当の信仰を得た、その喜びを書いたものである。それ故この本は内村の信仰告白という面と、自分の青春時代を回顧した半生記という体裁を、併せ持っている。

内村はこの本を、英文で書いた。書いたのは明治二十六年だが、出版したのは翌々年だ。折から日清戦争で欧米の日本への感心が高まっていたこともあって、この極東の異教徒の地で、一日本人がどのようにして基督教の信仰を得たのか、大いに関心を集めていたのだろう。内村のこの本は、西欧各国語に翻訳されて、広く読まれたという。

内村鑑三が基督教に入信したのは、内発的な理由からではなく、外圧によってなかば強制されてのことだったという。札幌農学校に入学すると、そこにはキリスト教徒になった先輩たちが多数いて、彼らからキリスト教徒になるよう執拗に働きかけられた。それで軽い気持で基督教信者になったというのである。しかし、一旦キリスト教信者になると、そのほうが何かと都合がよいと感じるようになった。それ以前の内村は、因習的な考え方に染まっていて、神社の前を通りがかるたびに敬礼をする慣わしだったが、かねてからわずらわしいと思っていたその敬礼をしないでもすむようになった。これが基督教徒になったことによる最大に都合のよいことだった、と内村は我々現代人からすると、ずいぶん頓珍漢なことを書いている。内村の少年時代は、廃仏毀釈と神道復興の動きが盛んで、神社への敬意が求められた時代だったということを考慮に入れても、神社信仰が日本の若者の心を煩わせていたといた風景が思い浮かんでくるようだ。

もうひとつ都合がよかったのは、信仰によって結ばれた友人たちと、深い人間的なつながりをもつことができて、そのことを通じて豊かな青年時代を送ることができたということだ。この本の中で内村は、そうした友人たちを綽名のようなもので言及しているが、新渡戸稲造とか宮部金吾といった人々が行動を共にしていたはずである。内村は友人を綽名で呼ぶばかりか、クラーク博士のような大きな影響を受けた人物についても直接的な言及をしていない。これは自叙伝ではなく、あくまでも信仰を得たいきさつを語ったものだから、実在の人物はあまり問題にならないと言いたいかのようなのである。

そういう態度は、アメリカ行きの少し前に結婚した女性について一切語っていないことにも現われている。彼は、性欲に駆られると、常に自分の手で湧き上がる欲望を処理したというような書き方をしている。あかたも自分がずっと独身であったといわんばかりなのである。

内村がアメリカへ渡ったのは、綿密な計画に基づいてのことではなく、なかばいきあたりばったりだったようである。だが、アメリカでは幸運に恵まれて、ニューイングランドの大学で学ぶことが出来た。新島穣の紹介でアマースト・カレッジに入ったのだ。もっとも内村は、この場面でも新島の名を直接もちだしてはいない。

アマースト・カレッジでの生活は、けっこう恵まれていたようだ。経済的には厳しかったが、援助してくれる人もいて、贅沢をしなければ何とかやっていけた。内村が教えを受けたアメリカ人は、信仰の上でも生活のうえでも立派な人で、彼を通じて内村は基督教の信仰を深めることができたのである。

日本人としての内村は、アメリカでの生活で我慢ならないこともままあった。一番我慢できないのは、東洋人が差別されることだった。内村はアメリカ人の中国人への露骨な差別を取り上げて、同じ人間であるにかかわらず、アメリカ人が中国人をバカにするのは道理にあっていないと憤慨している。だがその理由の一端が中国人の辮髪にあることを指摘して、人からバカにされずに済ませるには、馬鹿げた風習をやめる必要があるとも言っている。

また、西洋人と日本人の発想の違いについても思い知らされた。西洋人はものごとについての経験的な発想とか論理的な思考を重んじるが、日本人の自分にはそれが苦手である。というのも、「余の演繹的な東洋的の心は、知覚作用、概念作用、等々の厳格な帰納的方法とは相容れなかった。余にはそういうものはみな何の区別をも必要としない自明の事実であるようにも、または哲学者が暇つぶしに何かするために論じた同一物に対する別の名称であるようにも思われた」からである。自分たち東洋人は論理的に思考することになれていない。「我々は詩人であって科学者ではない。そして三段論法の迷路は我々がそれによって真理に到達する途ではない」と言うのである。

日本人を含めて東洋人が、論理よりも直感にたよりがちだとはよく指摘されることである。それを以て日本人は野蛮な考え方をする人種だと揶揄されることもある。内村はそうした人種的な相違を実感させられた最初の日本人の一人だったようである。

アマースト・カレッジを卒業後、内村は神学校に進むが、それは牧師になるのが目的ではなかった。内村は基督教の牧師をも坊主と呼んで、自分がいかに坊主を嫌っているかを説明している。基督教の信徒となるのは有意義なことであるが、基督教の坊主である牧師になるのはいやだというのである。その理屈が面白い。「余が武士の家に生まれたことは前に諸君に話したが、武士はすべての実際家とともにあらゆる種類の衒学と感傷主義とを軽蔑するのである。そしていなかる部類の人間が通例、坊主よりも非実用的であるか・・・坊主になることがすでに悪い、しかも基督経の坊主となることは余の運命の終わりだと思ったのである」と言うのである。

内村が坊主を役立たずの余計な存在と見ていたことには、彼の武士の生まれという出自とともに、彼が育った少年時代の日本社会のあり方も大いに影響していたのではないか。徳川時代の日本人は、坊主を余計物とは考えていなかった。むしろ社会にとって必要不可欠の存在と考えていた。それが明治維新以降、廃仏毀釈の流れが強まる中で、仏教的なものが軽んじられる傾向が強まり、それとほぼ平行して日本人の宗教意識が希薄になっていった。内村の仏教への偏見も、そうした社会の変化を反映している側面があるのだと思う。

結局内村は神学校を中退した。神学教育そのものに興味を失ったこともあるが、やはりこみ上げるホームシックに打ち勝てなくなったのだ。

ともあれ、このアメリカ留学を通じて内村がたどり着いた結論は、基督教は文明の発展を大いに推進する原動力になるという信念だった。内村は言う。「余は基督経国の進歩性をその基督経に帰する」と。あたかも、日本も文明国として進歩したいと思うなら、基督教国になるべきだと言いたいかのようである。







コメントする

アーカイブ