ぼんち:市川崑

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ぼんちという言葉を、筆者は関西弁に疎いのでいまひとつイメージがわかないのだが、ぼんぼんのなかでもしっかり者のぼんぼんというニュアンスの言葉だそうだ。ぼんぼんという言葉自体、そのニュアンスがわからないので、しっかり者のぼんぼんがどのようなものか、これもまたよくわからないのだが、しっかり者というからには、肯定的なニュアンスの言葉なのだろう。そういう意味合いでは、この映画に出てくるぼんぼんは、しっかり者とはとてもいえない人物なので、ぼんちの名には値しないようである。だから「ぼんち」と題してはいても、ぼんちになりそこねたぼんぼんの話と受け取ったほうがよさそうである。

映画の主人公は、市川雷蔵演じる老舗問屋のぼんぼんである。その老舗は、過去四代にわたり大阪船場で足袋の卸問屋を営んでいる。そこの跡取りであるぼんぼんは、女遊びが好きで、次から次へと妾をこしらえる。面白いのは、店の権力者であるボンボンの祖母と母が、ぼんぼんの女遊びをとがめずに、かえって妾に手当てをやることだ。大店の旦那が妾を持つのは当たり前のことで、後見役としては、ぼんぼんが恥をかかぬよう、世間体を取り付くってやるのが役目とわきまえているのだ。ぼんぼんは、そこに付け入って次々と妾をこしらえるわけである。

その一方で、貰った嫁が舅の思い通りにならないことは許せない。嫁が身ごもった子どもを実家で生むと、それは船場のしきたりに反することだからと、嫁から子どもを取り上げて追い出してしまう。これは横暴としかいいようないが、そんな横暴をボンボンは無論、その父親もとめられない。父親は、徒弟人あがりの養子で、女房と姑に顔が上がらないのだ。とにかくこの家では、祖母が絶対権力者で、それに母が随従し、万事が万事彼女らの意向で動いてゆく。

ボンボンは、草笛光子を手始めに、若尾文子、越路吹雪、京まち子に次々と手を出す。そのうち若尾文子は子どもまで生むが、妾の腹に生ませた子は手切れ金を払って離縁するというしきたりに従い、ボンボンは若尾文子に五万円の手切れ金を払って子を手放す約束を祖母にさせられるのだが、その後も若尾との腐れ縁は切れない。

草笛光子も男の子を生んだので、手切れ金が重い負担になると考えていた矢先に、女が死んでしまったので、生まれた子を里子に出すことで始末がつけられた。京マチ子は、その豊満な体を祖母に気に入られて妾として与えられたのだったが、それは女の子を産んで欲しかったからだった。というのも、この店は代々、女を当主として、それに優秀な男を婿養子に迎えるというのがしきたりだったからである。しかし京マチ子は石女なのであった。

時代はあたかも満州事変から敗戦へといたる戦時中のこと。世の中があじけなく成り行く中で、妾遊びにもなにかと制約がかかるようになる。ボンボンは妾宅から出てきたところを憲兵に見咎められ、あやうい目に合いそうにもなる。そのうち、大阪は大空襲に見舞われ、船場の町は焼け野原になる。しかし、奇跡的に焼け残った土蔵に、三人の妾と疎開していた祖母、母たちが集まってくる。ボンボンは、妾たちに金をやったうえで、河内長野の寺に彼女らを疎開させるのだが、祖母は川にはまって死んでしまう。文字通り裸一巻になってしまったわけだ。

こんなわけでこの映画は、戦時中の大阪船場を舞台に、そこで生きていた古き時代の日本人たちを描いている。船場の旦那衆は、公には商人のしきたりにしたがって堅実に生きながら、裏では適当に女遊びをして息を抜いている。そんな古い時代の商人像が浮かび上がってくる。

市川雷蔵がなかなかいい雰囲気だ。この人は、眠狂四郎のイメージが強いので、男臭い役柄が得意と思っていたが、こういう役柄も捨て難い。こういう雰囲気の俳優は、非常に珍しいのではないか。要するに歌舞伎の世界を地で生きているような雰囲気を感じさせる。京マチ子は、この時36歳になっていたが、あいかわらず豊満な肉体を感じさせる。ただすこし肥りすぎのようだ。顎の線がほとんど消えている。若尾文子は色気を振りまく一方、子どもを抱えて所帯じみたところも見せている。

映画の最初と最後のシーンで中村鴈次郎が出てくる。これは映画の本筋とはかかわりが無いのだが、市川雷蔵のぼんぼんから昔話を引き出す役柄を与えられている。この映画は、その昔話の中身だったというわけなのである。西鶴の一代男世の助を、昭和初期の時代によみがえらせたのが、この映画のボンボンだったというわけか。

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