民主主義と正義(二)

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3 シュミットの民主主義論
 ここでテクストの「現代議会主義の精神的状況」を踏まえながら、シュミットの民主主義論がはらんでいる問題について考えてみたい。

 シュミットのこの小論の目的は、とりあえずは、民主主義と議会主義との間には必然的な結びつきはないことを論証することにある。ここでシュミットのいう議会主義とは自由主義の中核をなす理念であるから、最終的な目的は、民主主義と自由主義との間には必然的な結びつきはないことを論証することにあると言ってよい。
 シュミットは言う。「民主主義は、軍国主義的でも平和主義的でもありうるし、進歩的でも反動的でも、絶対主義的でも自由主義的でも、集権的でも分権的でもありうる」と。なぜそう言えるのか。シュミットは、その理由を、民主主義が権力の行使主体に注目した概念であるのに対して、軍国主義以下、上記の諸対立に含まれている諸々の主義なるものは、自由主義も含めて、権力が目指している目的というか、理念にかかわるものだという点にある。
 これを民主主義と自由主義との対立に即してみると、民主主義とは、権力の主体と客体が同じ民衆であることを本質的な規定性としている、統治のあり方にかかわる事柄であるのに対して、自由主義とは、統治のあり方ではなく、権力がめざす政治理念のようなものにかかわる。民主主義と自由主義とはそれ故、同じ範疇に属する姉妹概念ではなく、全く異なる範疇に属する概念だということになる。それ故、この両者、民主主義と自由主義とを、密接不可分なものと考えるのは、カテゴリー・ミステークだということになる。自由主義はなにも、民主主義ばかりでなく、そのほかの統治形態、たとえば君主制とか貴族政と結びつくこともある。その証拠に、自由主義を体現した議会主義の理念が最初に確立されたのは、君主制下のイギリスだった。それがすなわち立憲君主制と呼ばれるもので、これはもともと君主制と議会主義とが結びついたものなのである。当初のイギリスの立憲君主制は、貴族階級が王からもぎとった成果と認識されていたわけで、今日考えられるような民主主義とは、だいぶ遠いものだった。
 とは言っても、十九世紀後半以降、民主主義的統治制度が議会主義とか自由主義と強く結びついてきたのは事実で、これを歴史上の偶然事と片付けるわけにもゆくまい、ということはシュミットも認めている。シュミットはその理由として、十九世紀後半以降は、権力の正統性を担保するものとしての民主主義の価値が飛躍的に高まったということを挙げている。民主主義というのは、上述したように、統治の主体と客体とが一致することを本質とする。この一致こそが権力の正統性を究極において支えているのであって、君主制や貴族政は、本来的にはこうした正統性をもたない。それらがもし正統性を主張することがあるとすれば、その理由として民衆の強い支持を持ち出さずにはいられない。いまどき民衆の支持に支えられていない権力は、正統性を主張できないのであって、だからこそ、民主義的な政体が、十九世紀以降ますます普及することになったわけである。
 その民主主義的な政体だが、これがかならずしも立憲主義とか自由主義と結びつくとはかぎらない。その例としてシュミットは、フランスのジャコバン独裁やロシアのボリシェビキ独裁をあげ、民主主義が独裁をもたらすことも十分にあるうるし、また実際あったと主張する。民主主義はまた、独裁まではいたらなくとも、自由主義の理念とは異なったものと結びつくこともある。たとえば、多数者による少数者の抑圧を合理化する政体とか、基本的人権に無頓着な政体などである。今日の世界でも、民主主義国家を標榜しながら、自由主義的な理念を踏みにじっている国は多くみられる。

4 シュミットの議会主義・自由主義論
 シュミットは、議会主義を自由主義の表われと見た。自由主義とは、権力から自由を守る戦いを中心に構成されたものだ。理論的にも歴史的にもそうである。歴史的には、自由主義はイギリスにおける権利をめぐる闘争(権利の章典と立憲主義の確立に集約される)やアメリカの独立革命に典型的にあらわれた。イギリスにおける闘争は、当初は王の専制から貴族階級の伝統的な権利を守る闘争という形で現れ、最後には国民があらゆる権力の横暴から自由であることを保証するものとしての権利の章典の確立に結晶した。アメリカの場合には、宗主国たるイギリスの横暴から植民地の人たちの自由を守る戦いとしての意義を帯びた。要するに、権力の横暴から人々の自由を守ることが自由主義の内実をなしていたわけであり、その場合に、人々の意志を代表するものとして、議会が大きな役割を果たした。そんなこともあって、自由主義と議会主義とは密接に結びついたという歴史的経緯があったわけだ。
 それにとどまらない。自由主義と議会主義とは、理論的にも深い結びつきがある、とシュミットは主張する。議会主義は立憲主義という形を典型とするが、それは権力を制限することを本質とする。権力の行使を制限することによって、権力の乱用とかそれに伴う権利の侵害から、国民を守ろうというのが立憲主義の本旨である。この本旨からして、立憲主義は次のような特徴を持つ。
 まず、権力の主体をなるべく分散させること。これは典型的には三権分立という形をとる。権力を一部に集中させないで、いくつかの構成要素に分解し、それぞれに権力の一部を担わせることを通じて、相互にけん制しあう。そうすることで、行政権とか立法権のいずれかが暴走することを防ぐ。権力の暴走は、普通は行政権の暴走という形をとりやすいが、立法権の暴走ということもありうる。シュミットはフランス革命におけるジャコバンの暴走をそのようなものとして見ている。したがって権力を抑制するには、三権をして相互にけん制せしめることが必要である。
 議会の運営についていえば、それが多数決原理によって形式的に運営されれば、少数者の利益が踏みにじられる恐れが強くなる。そのことを防ぐために、議会運営における少数者の権利の保護が必要となる。これが熟議というものである。熟議を通じて、徹底的に問題の本質を明らかにし、少数者にも一定の配慮をすることで、彼らの意見も何がしら反映されやすいようにする。そのためには、議会における議論の徹底した公開性と、十分時間をかけた丁寧な議事運営が求められる。そうすることでなるべく、少数者の意見が反映されるようにしようというわけである。
 以上は、権力の存在を当然の前提としたうえで、その権力を制約するための仕組みであるわけだが、このほかに、権力そのものを相対化しようとする考え方もある。この考え方の極端なものは、そもそも権力の主体とされる国家そのものを相対化してしまおうとするものである。これの典型は多元的国家論というものだが、これは国家を絶対的な存在とはせずに、さまざまな組織・集団の一つとして国家を位置づけ、国家の存在自体を相対的に見る立場である。これによれば、国家はその機能に応じた最低限の働きをすればよいことになり、場合によっては、なくとも済ませられるようなものとなる。国家がなくなれば、国民の自由を権力的に束縛するものが存在しなくなるわけだから、これは自由主義の究極的な姿といえなくもない。実際、今日アメリカで猛威を振るっているリバタリアンは、国家の役割を最小限の働きにとどめ、場合によってはなくてもかまわないと考えるものである。





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