中江兆民「一年有半」

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中江兆民が死んだのは明治34年12月13日のことで、死因は喉頭癌だった。最初癌の症状に気づいたのは前年明治33年の11月のことだったが、その折には喉頭カタルくらいに見くびって油断していた。ところが翌年の春、関西に旅行したところ、症状がひどくなって苦痛に耐えられぬので、医師に治療を仰いだ。そこで喉頭癌だと宣告され、余命は一年半、よく養生すれば二年だろうと言われた。本人としては、たかだか半年くらいの寿命だろうと観念していたところ、一年半の猶予を与えられたと受け取り、その一年半を有意義に使おうと決意した。どう使うかは迷いがなかった。日頃胸中に温めていた思いを吐露し、以て文人たるの意気を示さんとすることだった。こうして兆民は、遺書というべき著作「一年有半」および「続一年有半」をしたためたのである。そして、この両書の完成と刊行を見届けて、その年のうちに死んだ。享受した余命は一年有半ではなく、たかだか半年だったが、兆民としては一年有半におとらぬ充実した日々だったろうと思われる。

両書の刊行にあたっては弟子の幸徳秋水が奔走した。「一年有半」が完成するころ(八月四日)、兆民は東京から堺まで秋水を呼び寄せ、書物の上梓をゆだねた。兆民としては自分の死後刊行してもらえれば満足だったようだが、秋水は死後も生前も大した差はないと言って、その月のうちに(八月十八日)刊行した。これが結構評判を呼び、気をよくした兆民は、さらに「続一年有半」の執筆にとりかかった。これも兆民が生きている間に刊行され、大いに評判になった。兆民としては、名声を得ることが目的ではなかっただろうが、自分の吐露する思いが国民の間に伝わり、それがもとで洛陽の紙価を高からしめたことは、冥途の土産として満足できるものだっただろう。

この両書を通じて兆民がもっとも訴えたかったことは、日本にも本当の哲学が根付くべきだということだったと思う。兆民は言う、「哲学なき人民は、何事を為すも深遠の意なくして、浅薄を免れず」と。「而してその浮躁軽薄の病根も、また正に此にあり。その薄志弱行の大病根も、またまさに此にあり。その独造の哲学なく、政治において主義なく、党争において継続なき、その因実に此にあり。これ一種小怜悧、小狡知にして、而して偉業を建立するに不適当なる所以なり」

日本人があらゆることに浅薄で、独創性に欠けるのは、哲学がないからだ、そう兆民は言って、同時代において哲学者を標榜するものたちを、次のように罵倒する。「近日は加藤某、井上某、自ら標榜して哲学家と為し、世人もまたあるいはこれを許すといへども、その実は己が学習せし所の泰西某々の論説をそのまま輸入し、いはゆる崑崙に個の棗を呑めるもの、哲学者と称するに足らず」と言っている。

兆民が言ったような状況は百年後の日本でも基本的には変わっていない。今の日本でも、哲学者を標榜するものは、諸外国の哲学者たちの論説をそのまま輸入・紹介するに過ぎない。多少気の利いた者には、輸入した商品に聊かの工夫を施し、その付加価値を高めようとするものもいるが、自己の心底から導き出した、純粋な説を披露するものは絶えていない。兆民は「続一年有半」のなかで、自分なりの哲学説を開陳しているが、それを読むと、骨格においては西洋哲学の遺産を生かしつつも、兆民ならではの、かなりユニークな論説を展開している。それを読むと、哲学者とはかくあるべしと思わされるので、その後の日本の自称哲学者たちが、兆民の轍を踏まずに、欧米の哲学者たちの模倣を続けたことは、日本人として実に情けないことと言わねばならぬ。

兆民の哲学思想は彼一流の唯物論で、彼はそれをフランスの啓蒙思想から学んだのだと思う。だが兆民の最も兆民らしい思想は、その死生観にあるといってよい。兆民は言う、「児生る、その生るるの瞬間より即ち徐に死につつあるなり」と。これは、ハイデガーの説を先取りしている主張だ。ハイデガーが「存在と時間」のなかで人間を常に死につつある存在ととらえたのは1927年のことだが、それより四半世紀も前に、中江兆民が同じようなことを言っていたわけだ。ハイデガーが、人間の本質を、死を常に抱え込んでいることに見出したのは、第一次世界大戦で膨大な数の人々が無残に死んでいったことに触発されたのだと思うのだが、兆民がその考えに行き着いたのは、自分の死の可能性に直面したからではないか。人間というものは、他人の受け売りではろくなことは言えない。やはり自分自身の体験に裏付けられた思想は迫力あるものである。

兆民は書斎に閉じこもる人ではなく、大いに政治にかかわった人だから、同時代の政治にも気を配っている。兆民が「一年有半」を執筆中に星亨が暗殺された。星は兆民もかつてかかわった自由党の領袖的な立場にあった。だからその死は、自由党が中心となって牽引してきた日本の近代政治のあり方に、おのずから兆民の目を向けさせたのだろう、「一年有半」の大部分は、同時代をめぐる政論に費やされている。政論といっても、理論的な議論ではなく、もっぱら人物評だ。その人物票を読むと、当時の日本人の政治家に対する見方が反映されているようで、なかなか面白い。

兆民が同時代の政治家としてもっとも評価するのは伊藤博文である。その伊藤を兆民は次のように評している。「大勲位(伊藤)は誠に翩々たる好才子なり。その漢学は悪詩を作るだけの資本あり。その洋学は目録を暗記するだけの下地あり。これ既に大いに他の元老を凌轢して後に無語ならしむるに足る。しかのみならず口弁ありて一時を糊塗するに余あり。しかれどもこれ要するに記室の才なり。翰林の能なり。宰相者の資にあらず」。手厳しい言い方だが、これでもましなほうで、ほかの政治家たちは屑あつかいである。

屑あつかいという点では、政治家個々人はもとより、同時代の日本の政治システム全体が屑のごときものだと言っている。「両院議員ともに勢利の餓鬼なり・・・かつ官とは何ぞや、本これ人民のために設くるものにあらずや。今や乃ち官吏のために設くるものの如し。謬れるの甚だしといふべし・・・わが国には口の人、手の人多くして脳の人寡し。明治中興の初より口の人と手の人と相共に蠢動して、そのいはゆる進取の業を開帳し来れることここに三十余年にして、首尾よく今日の腐敗堕落の一社会を建設せり。わが人民何の罪かある」

死ぬつつある者にしてこの言を吐く。兆民や恐るべし。






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