好色一代男:増村保造

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増村保造は溝口健二の助監督として出発したが、溝口を強く批判して、その作風を嫌悪した。理由はいまひとつすっきりしないが、溝口が因習的な人間像を感傷的に描いたということらしい。だがその増村自身も、好んで日本の因習的な世界を描いた。もっともその描き方には、溝口とは違ったところがあった。溝口が女や弱い者の視点から描き続けたのに対して、増村は男の視点から描いた。また溝口には社会に対する批判的な意識があったが、増村にはそういう要素はほとんどない。彼にとって映画とは、理屈を盛りこむ容器ではなく、人を楽しませるものだった。要するに面白ければそれでよいのである。

「好色一代男」は、西鶴の有名な小説を映画化したものである。西鶴の原作は、因習的な封建時代にあって、堅苦しい人間関係を笑い飛ばしながら、自由奔放な生き方を謳歌したものだ。なにしろ七歳のときから好色の味を覚えた男が、六十歳で好色のユートピアである女護ヶ島に船出するまでの五十四年間に、数千人の女と数百人の陰間をたぶらかすという、破天荒な物語である。そこには時代への批判などはないし、また人間の生き方についての反省もない。荒唐無稽な話に事寄せて、読者の笑いを引き出すことだけを目論んでいる。

そんな西鶴の世界を増村は面白おかしく描いた。これほど人を馬鹿にした話はないのだが、馬鹿にされた当の観客が、自分が馬鹿にされているのではなく、誰か自分とは無縁の者が笑い飛ばされていると勘違いして、大いに笑うことが出来る、という趣向になっている。

原作では、世之介の五十四年間の所業を年代を追って語っているが、映画はそのなかからいつくかのエピソードをピックアップしてまとめてある。少年時代のことはオミットして、放浪の旅に出るまでの過程と、旅の途中で出会った女たちとのかかわりを主に描く。原作の世之介と多少の違いを感じさせるのは、映画の世之介にはいささかなりとも人間らしい殊勝さが感じられることだ。原作からは、世之介が本気で女に惚れるようには伝わってこないが、映画の中の世之介は本気で女に惚れているようなのである。その一方、陰間には嫌悪感を表わしている。男を抱くのはまっぴらだというのだが、原作の世之介は数百人もの陰間を抱いているのだ。

その世之介を、市川雷蔵が心憎く演じている。この俳優が演じると、世之介の好色には人情がこもっているのだと思える。なにしろ五十四年間に数千人の女をたぶらかしたわけだから、一人一人の女に深くかかわってはいられないはずだ。ところがこの映画の中の世之介は、何人かの女にまごころを込めて尽くしているのである。

こんな具合でこの映画は、娯楽作品としてはよくできている。






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