2017年10月アーカイブ

四方山話の会の今月(10月)の例会には栗子が参加すると言う。その栗子が自分史のレジュメを事前にメールで送ってきた。写真入りで履歴書のような体裁である。本人はこれを「日経風私の履歴書」と呼んでいる。ともあれそれを印刷したものを持って会場に駆けつけた。というのもこの日は台風の余波ですさまじい風が吹き荒れ、電車が遅れがちだったのだ。

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運慶の三男康弁の作品としては、興福寺の天灯鬼・龍灯鬼立像が残っている。もと西金堂に安置されていた。仏前に灯篭をささげる一対の鬼をかたどったものである。天灯鬼は左肩で灯篭を担ぎ、龍灯鬼は頭の上に灯篭を乗せている姿だ。龍灯鬼像内から出た銘文には、建保三年(1215)仏師法橋康弁が作ったと記されていた。

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晩年のクリムトの絵には、無地に近い単調な背景に人物の群像を浮かび上がらせるタイプのものと、賑やかな装飾的パターンを背景にして単身の全身像を配置するタイプのものとが共存している。「乙女(Die Yungfrau)」と題されたこの絵は、前者の代表的なものである。

幸徳秋水が明治40年(1907)の4月に刊行した著書「平民主義」は、小引にあるとおり、明治36年の冬から同39年の冬までに、様々な媒体に発表した文章を集めたもので、時事評論集といってよい。この三年間という期間は、短いながらも秋水にとっては、激動の時代と言ってよかった。明治36年にはすでに筋金入りの社会主義者になっていた秋水は、37年に日露戦争が勃発するや非戦論を唱え、それがもとで翌38年の2月に逮捕、有罪判決を受けて、五か月間巣鴨の刑務所に投獄された。出獄後も弾圧の手が緩まないのを見て、同年の11月に横浜から船に乗り、サンフランシスコに亡命した。ここで現地の社会主義者などと交流し、大地震などにも遭遇した。そして39年の6月に帰国し、引き続き政治活動に従事しつつ、官憲の憎悪を一身に集めるようになっていったわけだ。秋水が、官憲のフレームアップにからめとられるのは、43年(1910)6月のことである。

石川郎女、笠女郎、紀女郎、そして大伴坂上郎女といった具合に、万葉集には自分の恋心を高らかにうたった女性たちの歌が多く収録されている。それらについては、別稿でそれぞれ鑑賞したところなので、ここではややマイナーな存在の女性たちの歌を取り上げたい。阿倍女郎と高田女王だ。

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「けんかえれじい」は、旧制中学校を舞台にしたバンカラ青春劇である。旧制中学校は、漱石の「坊ちゃん」で描かれたようなバンカラで喧嘩っぽい雰囲気があるというイメージが形成されていたらしく、この映画はそうしたイメージに乗じて、思春期の若者の生態を大らかに賛美したものである。

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湛慶の作品として今日伝わっているものは、蓮華王院の諸像のほか、高知の雪蹊寺にある毘沙門天像及び吉祥天、善膩師童子の諸像である。毘沙門天像の足部の墨書銘によれば、これら三像は法院湛慶によって造立されたとなっている。湛慶が法院になったのは建暦三年(1213)のことだが、それから建長三年(1256)に没するまでの何時の時点でこれらを作ったのか、くわしくは判らない。

フランツ・カフカという作家は、世界の文学史の常識を覆すような作品を書いたわけだし、また人間としてもユニークな生き方をしたので、非常に影のある存在だと受け取られている。そんなこともあって、カフカを論じる視点は多様でありうる。といっても、星ほど多くのカフカ論というものがあるわけではない。偉大な作家と呼ばれるにしては、彼を論じたものは、意外と少ないのだ。しかも、その視点はかなり限られている。カフカのテクストに沿って、作品を内在的に解釈しようとするものか、あるいはカフカの生き方に焦点を当てて、カフカの小説の独特さは、彼の生き方の独特さを反映しているとするものか、そのどちらかと言ってよい。

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「メーダ・プリマヴェージの肖像(Boldnis Mäda Primavesi)」は、「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像」と並んで、クリムトの前期から後期への過渡期を代表する作品だ。前期の特徴である「黄金様式」から、後期の特徴であるやわらかい色使いの装飾画への移行を読み取ることができる。

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鈴木清順は1960年代に活躍した映画作家で、その破天荒と言われる映像は多くの熱狂的なファンを集め、いまでも日本の映画史を飾る名監督と言われている。そんなわけで、映画を論じようとする者には、必見の作家だと言えよう。筆者もそんな問題関心から彼の映画に接した次第だ。

もしも人間が不死の存在であったなら、時間という観念を持たなかったであろう。かりに既に五万年生きてきた人があったとして、その人にとって一万年前の出来事と千年前の出来事とにどんな有意義な違いがあるだろうか。どちらもその人にとっては、はるか昔のことなのだし、いまさらそれらの違いについてあれこれと考えるのは意味のないことだろう。未来についても、百年先と千年先とがその人にとって有意義な違いがあるとは思えない。どちらもこれから生きてゆく無限の時間のなかでの些細な相違にすぎないのだ。時間は、人間の存在が有限であることに基づいている。時間が有限であるからこそ、人間は自分に限られた時間を有意義に使おうと努力するようになるのであるし、そこから時間を大事にしようとする姿勢が生まれてくる。時間の観念は、人間の存在の有限性に根ざしている。こう捉えるのが、ハイデガーの時間論の根本的な特徴である。

万葉の時代には異母兄妹間の恋はタブーではなかった。当時の子どもは母親のもとで育てられたので、母親が違えば互いに会うこともなく、他人同士だったという事情も働いただろうが、天皇家からして異母兄弟婚が盛んだったので、世間でもタブー視されなかったと思われる。ただ、同母兄妹間の恋はさすがに強く忌避されていた。天智天皇と間人皇女とは同母兄妹間で恋をしあった例として有名だ。天智天皇の即位が異常に遅れたのは、このことが影響したのだと推測されている。

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サム・ペキンパーは、「ゲッタウェイ」ではひたすら逃げ回る男を描いた。「ガルシアの首(Bring me the head of Alfred Garcia)」は逆に、ひたすら追い求める男を描く。方向は逆向きではあるが、あることをひたすら追求する点では共通している。ペキンパーは、人間が何ごとかに夢中になっている姿に、魅せられているように見える。

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運慶には六人の子どもがいて、みな仏師となった。そのうち今日作品が確実に残っているのは、長男の湛慶、三男康弁、四男康勝の三人である。これらの息子たちが中心となって、慶派の本流を支えた。京都蓮華王院の千躰千手観音以下の諸像は、彼らの集大成と評価されている。もっとも蓮華王院の諸像は、慶派のほか、院派や円派などもかかわっており、当時の仏師を総動員しての壮大な事業であった。

無覚先生:今度の選挙はまたもや自民党の圧勝になりました。前回の総選挙及びその後の参院選に続き、安倍政権の自民党は三度続けての大勝利です。この勝利は安倍さん自身の予想を大きく超えていたのではないか。安倍さん自身は与党で過半数をとれば上出来だと言っており、それはかなり本音に近かったと思われますので、まさかここまで勝てるとは思っていなかったと思うのです。実際安倍政権の評判はそんなによいとは言えない。そういう状況のなかでこの勝利を得た。恐らく笑いがとまらないでしょう。この選挙は、安倍さんの党利党略だと批判されましたが、その党利党略がみごとに当たったということでしょうね。選挙は結果がすべてですから、党利でも党略でも勝てば官軍だ、安倍さんはそう思っているに違いない。しかし何故またここまで大きな勝利を収めることができたのか。メディアは野党の足並みの乱れにその理由を求めているようですが、果たしてそれだけか。皆さんはどう思いますか。

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アデーレ・ブロッホ=バウアーはクリムトの恋人で、彼女の絵をクリムトは何枚か描いている。もっとも有名なのは1907年の作品だが、それとこの絵を見比べると、同じ画家の手になるとは思えないほど、違った印象を受ける。その要素はいくつかあるが、決定的なものは、色彩の使い方だろう。1907年のものが「黄金様式」の典型例として、金色を主体にして装飾性に富んだ作品なのに対して、この絵は、どちらかというと大人しい印象を与える。

「社会主義神髄」は、幸徳秋水の社会主義論である。秋水といえば無政府主義者の印象が強く流布しているが、この著作を読むと、社会主義者としての秋水のイメージが強く浮かび上がってくる。彼がこの本を書いたのは明治36年(1903)のことで、その頃にはまだ日本ではマルクスの思想があまり普及していなかったなかで、秋水はマルクスやエンゲルスの著作(共産党宣言、資本論、空想から科学への社会主義の発展)を参考にしながらこの本を書いたようである。ちなみに秋水は、翌明治37年に「共産党宣言」を翻訳して平民新聞に掲載し、発禁処分を食っている。

万葉集巻二は、相聞と挽歌からなっている。相聞の部は、さまざまな男女の間に交された恋の歌を収めているが、まず眼を引くのは鏡王女をめぐる相聞歌である。鏡王女は、額田王の姉で、藤原鎌足の妻となり、不比等を生んだ女性だ。妹の額田王同様に、歌の才能に恵まれていた。その彼女がまだ若い頃、鎌足の妻になる前に、天智天皇から思いを寄せられていたらしい。巻二にはそんな思いを感じさせる歌が収められている。

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「ゲッタウェイ(The Getaway)」は、アクション映画の巨匠サム・ペキンパーの代表作だ。アクション・スターとして一世を風靡したスティーヴ・マックィーンをフィーチャーして、思う存分暴れさせている。とにかくすごい。また面白い。一見して気分爽快になることは太鼓判を押せる。

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快慶は、建仁三年(1203)の東大寺僧供養の際に法橋となった。この地蔵菩薩立像は、「巧匠法橋快慶」の署名が右足部に刻まれており、快慶の法橋時代の作品で、唯一現存するものである。

ボルヘスの「カフカの先駆者たち」は、文庫本にしてわずか五ページの小文であるが、カフカという作家の意義をよく捉えた名文になっている。さすがに文章の達人ボルヘスだ。

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1909年はクリムトにとっての転換の年になったといわれる。この年の展覧会で見たマティスやムンクの絵から、彼はそれまでの自分の絵が時代遅れになったのではないかとの深刻な悩みに直面し、絵画の様式の転換の必要性を強く意識するようになる。そこから彼なりの試行錯誤が続き、晩年の華やかな作品群が生まれたといえる。

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サム・ペキンパーは、最後の西部劇の大家である。60年代にはテレビの西部劇ドラマで人気を博した。「ガンスモーク」とか「ライフルマン」といった番組は日本にも輸入され、筆者も熱心なファンの一人だったものだ。彼の作風は、なんといっても暴力を荒々しく描くことだ。世の中(とくに開拓時代のアメリカ西部)には、いわゆる正義などといったものは存在しない。存在するのは力だけだ。その力のぶつかりあいが人間社会の本質なのであって、力の強いものが、正義を僭称する。そういうニヒリスティックな視点が、彼のあらゆる作品を貫いているといってよい。

「存在と時間」の第二編は現存在の時間性(有限性)をテーマにしているということで、いきなり「死」の話から始まったあと、「良心」についての話に変る。良心は、とりあえず時間とは関係がないと思うし、良心に続く章では、現存在の時間性の分析という具合に、再び時間のテーマにもどる。こういうわけでハイデガーが何故、この部分で良心の問題をさしはさんだのか、その意図がちょっと気になる所だ。しかも、この良心の部分は、第一篇で出てきた「不安」の問題とほとんど重なるような議論をしている。わざわざそれを蒸し返してまで、なぜここで良心を論じるのか。もしかしたらハイデガーは、現存在の本質が時間性にあることを踏まえ、その時間性を本格的に論じるべき第二編で、その核心を概念として「良心」を取り上げたつもりなのかもしれない。「不安」の部分では、現存在の時間構造が明らかになっていなかったが、したがって「不安」の内実も厳密には規定できなかったが、時間性を視野に入れたこの章で、時間的な存在である現存在にとって、「不安」としてかつて現われた現象を、「良心」という形で、更に厳密に規定したい、ということなのかもしれない。

万葉集には恋の歌が多い。それは、万葉の時代の人々が恋多き人だったことの反映のようなものである。つまり日本人は、大昔から恋心が豊かな人種だったわけである。なぜ万葉人はそんなに恋にこだわったのか。一つには、万葉人が本質的に色好みだったという事情もあろう。しかしそれ以上に重要なのは、万葉時代の男女のあり方である。万葉時代の婚姻形態は、妻訪婚といって、男が女の家に赴いて、一夜を一緒に過ごすという形が基本であった。これは、もっと昔の古代社会における家族関係の基本が女系家族だったことの名残と思われる。いづれにしても万葉の時代の男女は、いまの時代の男女のように、一軒の家で共同生活を営んでいたわけではなかったのである。そんなわけであるから、男女関係を強固なものに維持する為に、絶え間のないコミュニケーションが必要となった。歌はこのコミュニケーションのメディアとして発達したのである。

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ミケランジェロ・アントニオーニの1970年の映画「砂丘(Zabriskie Point)」は、ハリウッドで作られた。主な舞台はカリフォルニアの砂漠であり、テーマは1960年代のアメリカ文化に対する複雑な反応であるといえる。というのもこの映画には、当時のアメリカ社会への意義申し立て、それは一言でいえば反体制とヒッピー文化といってもよいが、それを描きながらも、別段それに同情的であるわけでもなく、そういうアンチ文化を体現している主人公たちは、亡びるべき存在として描かれているからだ。

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文殊菩薩騎獅像は、奈良の文殊院の本尊として作られた。文殊院は大化の改新時代の官僚安倍倉梯麻呂の氏寺として創建された寺で、安倍文殊院とも呼ばれている。この像は寺の本尊として、善財童子以下の眷属四像をしたがえ、獅子に騎乗した姿であらわされている。獅子は本来文殊の乗り物である。

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クリムトは、1901年に続いて1909年にもユーディットをテーマにした絵を制作した。世紀末をまたいだ時代のヨーロッパでは、サロメとかユーディットがファム・ファタールの典型として人気を博していたので、この絵もそうした人気に便乗したものだと思われる。便乗するということばかりではなく、クリムト自身にもファム・ファタールへの強い嗜好があったようだ。

幸徳秋水が「二十世紀の怪物帝国主義」を執筆したのは明治三十三年から翌年にかけてのこと。ちょうど十九世紀から二十世紀への移り目のときである。この時期は、列強諸国による海外侵略と領土の分割がピークを迎えており、そうした動きが「帝国主義」という名で観念されるようになっていたが、帝国主義を論じた本格的な研究はまだ現れていなかった。そういう中での秋水の帝国主義論は、国際的にも一定の存在意義を認められよう。

万葉集には、梅の花を詠った歌が百十九首あるが、そのうち三分の一ほどが冬梅を詠ったものである。その冬梅は、白い花を咲かすので、雪が積もったさまに似ていた。そこで冬梅の歌は、雪と一緒に詠われることが多かった。次は、大伴旅人のものと思われる歌二首。
  残りたる雪に交れる梅の花早くな散りそ雪は消ぬとも(849)
  雪の色を奪ひて咲ける梅の花今盛りなり見む人もがも(850)
一首目は、残雪と共に咲いている梅の花は、雪が消えたあとまで咲き残っていて欲しいという趣旨で、二首目は、梅の花が雪の色を凌いで咲き誇っている、その花の盛りを一緒に見る人がいればよいのに、という趣旨である。どちらも、雪と梅とをライバル同士に見立てている。

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ミケランジェロ・アントニオーニの1967年の映画「欲望(Blow Up)」は、いわゆる愛の不毛三部作に続いて作られた。愛の不毛三部作でアントニオーニが描いたのは、男女の不条理な関係についてだったが、この「欲望」からは、およそ人間が生きていることの不条理のようなものを描きたい、というアントニオーニの意思が伝わってくる。意思が伝わってくる、というのは、かならずしもそれが理解可能ということを意味しないということだ。

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快慶は、建仁年間(1201-03)に作風の転換期を迎え、中期の段階に入ったといえる。いまだ前期同様安阿弥陀仏の署名をしてはいるが、その作風には、前期の特徴である写実に加え、優美繊細さが目だってきた。これは、この時期の快慶が、宋風、藤原彫刻、奈良の伝統的な様式を丹念に取り入れたことの結果だったと考えられる。こうした試みを通じて快慶は、運慶とはまた違った、彼独特の作風を確立していった。

ジル・ドルーズとフェリックス・ガタリの共著「カフカ」は、次のような文章から始まっている。「カフカの作品は一本の根茎であり、ひとつの巣穴」である(「カフカ」宇波彰、岩田行一訳)。

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ダナエはギリシャ神話に出てくるキャラクターである。その美しさをゼウスに見そめられたが、彼女が生んだ子は父親を殺すであろうとの予言を信じた父が彼女を塔の中に幽閉して、男を近づけさせないようにした。そこで彼女が恋しいゼウスは、黄金の雨となって塔の窓から侵入した。その結果生まれたのが英雄ペルセウスである。

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ミケランジェロ・アントニオーニの1957年の映画「さすらい」は、女に捨てられた男の悲哀を描いた作品だ。これをアントニオーニは自分自身の経験をもとに作ったという。彼は最初の妻からいきなり別れを告げられ、気が動転したそうだが、その折の自分の気持をこの映画で表わしたというのだ。この映画が独特の切迫感と哀愁を以てせまってくるのは、そうした生きられた体験のもたらすところらしい。

人間は死すべき存在だということは、昔からわかりきったことだ。だが、そのわかりきったことを、西洋の哲学は表立って問題にしてこなかった。むしろ、人間にとって永遠とは何なのか、というような場違いな問題設定がなされてきた。プラトンのイデア論などは、ある意味そうした場違いな問題設定の典型だったと言えなくもない。なぜなら、イデアという永遠・不変なものを存在の本質とし、人間がそれにあずかることを問題として取り上げたことで、人間が死すべき存在だという厳然とした事実から、人間の目をそらし続けてきたからである。

万葉集には、雪を詠んだ歌が百五十首以上もある。それらが、冬の季節感を詠んだ歌の大部分を占める。日本人は、雪について、かなりきめ細かい感性を持って接していたといえるが、そのことは雪を表現する言葉の多様さにも現われている。淡雪、沫雪、深雪、初雪、白雪、はだれ雪、などといった言葉がそれである。

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「曽根崎心中」は、日本の演芸史にとって画期的な作品だけあって、我々今日の日本人の眼にも実に新鮮に映る。題材が男女の命をかけた恋であることが、時代を超えた普遍性のようなものを感じさせるからだろう。演劇という点では、様式的にも構成上も稚拙なところはあるが、それを補って余りある迫力がある。その迫力とは、恋に命をかける男女の情熱に由来するのであって、それは先程もいったように、時代を超えて見るものに訴えかける。

膨大な数の犠牲者を出したラス・ヴェガスの銃乱射事件が、アメリカにおける銃規制のあり方についての議論を活発化させたが、どうやら今回も尻切れトンボの幕切れとなって、銃規制が本格的に進む見込みはないようだ。何しろ今回の事件は、今年に入って以来複数の死者を出したマス・シューティングとしては273番目の事件だというのに、ということは毎日のようにアメリカのどこかで銃乱射事件が起きていると言うのに、それを規制しようという議論が一向に本格化しないのは、我々日本人の目には異様に見える。

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快慶初期の傑作のひとつに、浄土寺の阿弥陀三尊像がある。本尊の阿弥陀像が像高530cm、両脇時が370cmと、非常に規模の大きな仏像である。「浄土寺縁起」によると、建久八年(1197)に丹波法眼懐慶によって作られたとあるが、この懐慶とは快慶をさす。「丹波法眼」とした理由はよくわからない。

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金色を多用したクリムトの「黄金様式」を代表する作品である。男女が抱き合う構図はベートーベン・フリーズの中にも見られたが、そこでは男の大きな背中に隠れて女の表情は見えなかった。この絵の場合には女性の恍惚とした表情があらわにされ、彼女の顔に口付けする男の顔は半分見えるだけである。クリムトは、男女の接吻を描きながら、女のほうに比重をおいているわけである。

幸徳秋水は、明治43年の6月に大逆罪の容疑で逮捕され、翌明治44年1月に死刑の判決を受け、一週間以内に刑を執行されて死んだ。秋水の共犯とされた24名にも死刑が言い渡されたが、そのうちの半分は明治天皇の恩赦が行われ、刑一等を減じられて無期懲役となり、秋水を含めた12名が実際に死刑になった。この事件は、その後の研究によって、権力によるフレームアップであったことが明らかにされている。そのフレームアップを検事として指揮したのは、後に総理大臣に上り詰めた平沼麒一郎だ。平沼は、首相桂太郎のほか、明治天皇自身の強い意向を受けて、このフレームアップを指揮したと、研究者の一人神崎清は指摘している。

万葉集の中で、冬を詠った歌といえば、圧倒的に雪を詠んだものが多い。それとあわせて、冬のうちに咲く梅を詠んだものがある。梅は、いまでは初春の風物として受け取られているが、旧暦では、今の正月にあたる時節はまだ冬なので、その頃に咲く梅が冬の風物として受け取られた。万葉の時代の梅は、白梅だったことから、それが咲くさまが、枝に積もった雪と似ていた。そこで、万葉の歌では、梅と雪とを関連付けて詠った歌が多い。

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「痴人の愛」は、谷崎の実体験を踏まえた小説だ。実体験を盛り込むに当たっては、当然自分自身の面子が意識に上るだろうから、いくらエロ・グロなテーマを扱っていても、そこには自分の尊厳へのこだわりがいくらか働くものだ。この小説の場合には、谷崎の分身たる主人公が、女に溺れてしまったのは、女の尊い美しさと、それについての男の美意識が相乗的に働いた結果であって、なにも下世話な意図がもたらしたものではない、というようなメッセージが、谷崎一流のレトリックで発せられているわけだ。だから読者は、そのメッセージを受け損なうと、この小説を正しく受容することはできない。そのように少なくとも谷崎本人は思っていたに違いない。

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快慶は、康慶の弟子として、運慶とは兄弟弟子にあたる。運慶と共に東大寺南大門仁王像を造立したことに象徴されるように、鎌倉彫刻の全盛期において、運慶と名声を二分した。南大門仁王像を共同制作したことなどで、彼らの作風に共通点ばかり強調される傾向があるが、その作風には微妙な違いが指摘できる。単純化して言うと、男性的な荒々しい作風の運慶に対して、女性的で優雅な作風の快慶ということになろうか。両者に共通しているのは、リアリズムを貫いているという点である。

アルトゥールとイェレミーアスは、「城」からKの助手として派遣されたものだ。彼らは小説の最初の部分から登場する。そしてなにくれとなくKに付きまとい、Kの行動に一定の色を添えた後、突然小説の進行から脱落する。彼らをわずらわしく思ったKが追い払ったということになっているが、実際は彼らのほうでもKにうんざりしていたのだ。

今年のノーベル文学賞を日系イギリス人のカズオ・イシグロが受賞したというので、日本中が大騒ぎだ。たしかにイシグロのノーベル賞受賞は素晴らしいことだし、彼にはその資格が十分にあると思う。筆者もすなおに喜びたいと思う。

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1905年から09年にかけて、クリムトはベルギーの大実業家アドルフ・ストクレの屋敷の壁画制作に従事した。これはストクレの屋敷の建築設計から装飾までを一括して請け負ったジョーゼフ・ホフマンらウィーン公房のプロジェクトの一環として行われたものだった。このプロジェクトは装飾性を最大のコンセプトにしていたが、クリムトもそのコンセプトを取り入れて、非常に装飾性の高い図柄を制作した。

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増村保造の映画「刺青」は、谷崎のあの小説が原作だという触れ込みなので、そのつもりで見たら、全く違った代物だった。筋書きも雰囲気も全く似ていない。共通点があるとすれば、それはただひとつ、女の背中に彫られた刺青の図柄が蜘蛛だったということだ。谷崎の小説では、この刺青を彫られた娘が、少女から女へと変ったというふうな落ちになっているが、この映画の場合は、普通の女が悪女に化けたというわけだ。そういうわけで、刺青は筋書きを進めるための添え物で、本筋は悪女の悪女振りを描くところにある。その悪女を、これは悪女役をやらせたら型にはまる若尾文子が演じている。この映画はどうも、若尾文子のために作られたようなものだ。若尾はこの映画を通じて、永遠の悪女スターという名声を後世に残すこととなった。

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今回の旅行については、高湯温泉の硫黄の湯につかることとともに、白河の関に立ちたいという思いが強かった。それで松子に特にお願いして、白河の関に寄ってもらった。白河の関については、ここで饒舌を振るうこともないと思う。能因法師、西行法師そして芭蕉という具合に名前を連ね、それらがみな白河の関と縁があるといえば、それがどのような縁なのか、日本人なら知らぬものがないと言ってよいのではないか。

真理をめぐる伝統的な議論は、真理を人間の判断の作用と関連付けて論じるものだった。人間の判断の作用とは、人間の主観の働きである認識作用が、客観的な対象についてなされるときにおきるものであるが、その場合に主観的な判断が客観的実在と一致することが真理だとされた。この考え方は、一方に意識という主観的なものを置き、他方にその対象としての客観的な実在を置いて、その両者を対立させることを前提としていた。しかしこれは転倒した考え方だとハイデガーは主張する。

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山子夫妻及び落、松の両子と福島の高湯温泉に遊んだ。隣の土湯や会津の温泉には、このメンバーで行ったことがあるが、高湯は結構名高いにかかわらず、まだ一度もいったことがないので、今年はここで硫黄の湯につかろうと思った次第だ。ここはまた、徳川時代の初めころから、湯治場として栄えたところでもあるので、先日行った小川温泉とは、古い湯治場としてまた違った風情を楽しめるかなと思ったのだった。

新古今集以来、雨といえば五月雨がまずイメージされ、したがって夏の季節感と強く結びついて今日に至っているが、万葉集には五月雨を詠った歌がひとつもない。梅雨らしきものを詠った歌はあるが、そういう場合には、「卯の花を腐す長雨」という具合に、否定的なイメージを持たされたものだ。万葉人が好んで、しかも肯定的なイメージで、詠ったものは、春の雨である春雨と、秋の雨である時雨や村雨である。秋の雨は、葉を色づかせるものとして詠われる場合が多い。

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増村保造の1965年の映画「兵隊やくざ」は、日本軍の兵営生活を描いたものである。日本軍の兵営生活は、内務班といわれる単位を中心に営まれていたが、そのありさまは、野間宏が「真空地帯」で描いたように、身分意識と私刑が支配する陰惨な面を多分にもっていた。この映画は、そうした陰惨な面を、ブラック・ユーモアを駆使して、面白おかしく描き出したものだ。この手の映画は他にも沢山作られたが、出来のよさという点でも、評判の面でも、もっとも成功したものといえる。

民進党が四分五裂に分裂する様相を呈している。前原代表の約束では、民進党所属の議員が全員揃って小池新党のお世話になるはずだったものが、当の小池都知事が、そんなつもりはさらさらない、自分の気に入らない者(いわゆるリベラルの連中)は断固排除すると宣言したことで、小池新党に受け入れてもらえない層を中心に、前原代表への不信が高まり、ついには無所属で立候補したり、リベラル新党を立ち上げて、そこから立候補しようという動きが出て来た。今後その動きがどこまで広がるか、またそれが有権者にどの程度支持されるか、いまのところ不透明なところが多いが、ひとつだけ明瞭なのは、多くの議員たちが、前原代表や小池都知事に騙されたと憤っていることだ。なにしろ一旦は前原代表の言葉を信じて、全員一致で民進党を見限る決意をしたにかかわらず、それをいとも簡単にひっくり返されたわけだから、彼らが騙されたと憤るのも無理はない。しかしどう憤って見せても後の祭りだ。憤れば憤るほど、その顔はお人よしに見える。

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無著・世親は、五世紀頃のインドで活躍した兄弟僧である。法相の教学を確立したとされている。その兄弟僧の立像を、興福寺北円堂の中尊弥勒仏の住持として運慶以下が作成した。弥勒仏台座の銘によれば、世親は運慶第五子運賀の担当とされている。無著のほうは、第六子運助の担当だろうと推測されている。

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「水蛇Ⅰ」とほぼ同じ時期に描かれたこの「水蛇Ⅱ」も女性たちの同性愛的な世界をテーマにしているようだ。Ⅰのほうが立ちながら抱き合っている二人の女を描いているのに対して、このⅡは思い思いに横たわる女たちを描いている。彼女らは互いに身体を密着させてはいないが、寛いだ雰囲気の中でもエロティックな感じをかもしだしている。

明治34年12月、中江兆民が喉頭がんで苦痛のうちに死んでいったとき、その死に水をとったのは、弟子の幸徳秋水だった。秋水は、それ以前に兆民の遺書というべき「一年有半」及び「続一年有半」の出版に尽力し、師の兆民を喜ばせていた。なにしろ秋水は、17歳の時に兆民に弟子入りして以来、兆民を父として仰ぎ、かならずしも全面的にではないが、兆民の思想にも私淑していた。そんな秋水が、兆民の死後半年足らずの後に、師の兆民をしのんで、伝記と思想の紹介を兼ねた文章を書いた。「兆民先生」がそれである。この文章を読むと、兆民の人物像が彷彿として浮かび上がってくるとともに、その兆民を敬愛してやまなかった秋水の気持ちもよく伝わってくる。そのさまたるや、日本の歴史上もっとも美しい師弟愛を見せられているかのようである。

中秋の名月という言葉があるとおり、秋の月見の風習が我々現代人にはあるが、万葉時代にはまだ月見の風習はなかった。月見の風習が中国から日本に伝わったのは、平安時代に入ってからのことだ。それゆえ、万葉集には、中秋の名月をことさらに詠ったものはないし、月が専ら秋と結びつくということもなかった。万葉集には月を詠んだ歌が多いが、それらは、季節を問わず、また満月に限られていない。そんなわけだから、ここでは、特に秋の季節感との結びつきにこだわらず、月を詠んだ歌を鑑賞したい。

卍:増村保造

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谷崎潤一郎の小説「卍」を筆者は、日本文学に聳える最高峰の一つだと思っているし、世界文学の舞台で日本文学を代表して渡り合えるものとしては、この作品が最も相応しいとまで考えている。それほど「卍」という小説は、日本的でかつ普遍的な文学性を帯びている。ということは、文学作品だからこそ、そのような優越性を主張できるわけで、これを映画化すると、その魅力のほとんどが失われてしまう、ということだ。だからこの小説の十全な映画化はありえないだろう。精々、原作のもつ雰囲気をなにがしかほど表現できるか、その程度が問題になるくらいだろう。

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